2010-09-07

極東ブログ「小沢首相後の変化予想」を受けて雑感

 先日Twitterで、小沢さんについての話題がありました。「アメリカにしてみれぱとにかく日本に政府があればよし。」という言葉が妙に残っていて、何が気になってるのだろうかと静かに考えていました。
 以前の私なら日本を否定するようなことに対しては擁護する側で、それが当たっていても、どこかで見てみないふりをしていたようなところがありました。都合の悪いことには向き合わない、とでも言った方が分りやすいかな。そういう時というのは、自分の本心を隠さなければいられないのですが、その理由に私の力ではどうにもならないことであったり、それを諦めることであったりしました。昨日もTwiitterで、「例えばだけど民主党代表選挙とかもだけど国民が関与するものでもないし、こういうのは諦めるしかない。」と言われて、関与が可能なことにまでもずっと諦めてきているのが不満なのだと思いました。一つでも「これは良かった」と思える政治に、長いこと巡り会っていません。これが鬱積しているのだと思いました。
 昔は、海外で、現地の人に日本を悪く言われると、当たっている時は嫌な思いをしました。変ですが、このような経験から、愛国心のようなものが私にもあるのだと自覚したことがあります。恥ずかしい日本の恥ずかしい日本人ではいたくないという反発もあったかもしれません。国家の恥は私の恥でもあったのです。が、反発心すら起きない今の私は何者よ、なので、劣化してしまったのは私なのだとがっかりもしています。
 誰かも言っていたな、政治力ではどうすることもできないとなったら個人個人で対応策を考えるしかない、と。うーむ。それも困ったな、無力とはこういうことかと気持ちは沈む一方です。
 「アメリカにしてみれば応対さえしてくれれば誰でもいいよ今の日本は。誰が出てきても大差はないのだし。」と言われているようなものです。だから小沢さんでも対応できるということでしょう。ところが、先日も触れたように(参照)、小沢さんは国連至上主義をかたくなに持っている人で、今時このような考え方が通用するわけもないのです。この考え方は「冷戦とド・ゴール主義ともえるんだけど」と聞いて、直ぐには「ゴーイスト小沢」とは結びつかなかったのですが、簡単に言うと、フランスの「大国主義」のことです。国家の威厳を最重視する考え方で、孤立を好んで独自性に走る国家に向かうことだと解釈しています。当時としては、アメリカ批判です。まさかに小沢さんが首相になってもこのような国家を目指せるとも思っていませんが、なんとなく不安であるといえばそうです。
 今や歴史上の人物としてしか名を残していませんが、私が高校生時代まではこのド・ゴール大統領や毛沢東主席のことが外電から入ってきていました。「ド・ゴール主義」とはものすごく懐かしい名前を聞いたものだと、自分の生の記憶の人物は、今や歴史上の過去の人として浮かび上がったのです。私も古い人間になったのだと自覚せざるを得ません。
 懐かしい話ですが、中国が国交を開く前に北京空港にトランジットした時、滑走路から見た建物の正面には毛沢東主席の肖像画が掲げてあり、空港職員は皆人民服姿で、手には銃を持っていたのを覚えています。時は同じくして、フランスにはシャルル・ド・ゴール空港が開港し、冷戦と言われる第二次世界大戦の英雄として活躍した当時の大統領「シャルル・ド・ゴール」の名がついたのでした。この空港にもトランジットで下りたのですが、近代的な大きな空港という印象しか残っていません。
 話を戻すと、今回の民主党代表選挙で、どちらが選ばれても日本の今後にとっては良いことなどはありえませんが、小沢さんが当選しても対外的には別段大きな影響は無いと言えそうです。今更ゴーイスト風を吹かせても誰も相手にしないのではないかと思いますし、今の日本は、「大国主義」を持ち出してもそうなるだけの力もないというのが実態のようです。

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