極東ブログ「日本人と進化論」に見た時代の話
「日本人のための 宗教原理」)小室直樹)をぼちぼち読んでいて、キリスト教の堕落と仏教の堕落は全く違うというあたりから人々にとっての神はどう存在していたかという昔話が非常に面白く、小室さんの話のリズムについ乗ってしまうのです。そうそう、先日極東ブログでなぞなぞ問題になった女性は誰?(参照)で触れていたルターの話も当然、この本に出てきます。マルティン・ルターの奥さんがその答えでしたが、カトリックに疑問を感じたルターがプロテスタントを興し、その後修道女と結婚したのは、それは委員会?みたいなちぐはぐとした歴史に面白さを感じるのです。
この先を読みながら、そういえば山本七平さんの話に「現人神(あらひとがみ)」について、日本人の奇妙な矛盾の話しがあったのを思い出しました(これが「日本教」と呼ばれているのです)。極東ブログを探してみたら、私が前から探していた小室直樹VS山本七平の対談で取り上げられていました(参照)。ひゃー、2005年のエントリーです。進化論と現人神の両方を信じられる日本人のメンタリティーってなによ?みたいなことにはなっていませんが、話の展開が大変面白く、「日本人のための 宗教原理」から一旦途中下車して寄り道をしてしまいました。
このお二人の対談の中身は、日本人が誰も気づかない矛盾を何故だろう?と、真剣に話しているのです。遠い昔の話だとはいえ、この一見どうでも良いようなこと、つまり、このことを知らないと生きて行かれないような現実的な問題でもない、ちょっと浮世離れしたような話を真剣に語り合っている風景が、何とも素敵に写るのです。私は、そういうことに夢中になっている男性に引かれるところがあって、こういうのが好きなのです。
話を戻すと、人間の起源はサル。私たちはサルの子孫なのです。おサルの籠やだほいさっさ♬んで、昭和天皇も先祖はサルなのですが。ここから先は今の人には通じない話だと思いますが、天皇は、昔は「現人神(あらひとがみ)」といって、人間の姿をした神様と信じられていたのです。私には大昔の記憶に、それがそうだと言える人々を見た経験があります。天皇家に起こる婚礼の時の写真などは額に納めて飾られ、「天皇は神様」だということを本当に信じてたのです。そこでこの二人は、サルの子孫である天皇が何故「現人神」なのだ?本人が矛盾を感じる筈だろうと、当時、日本人が誰もそのことを疑わなかったのが変じゃないのか?と、探求が始まったのです。俺達発見者!的な乗りにロマンがあるなぁと引かれました。
ちょっと我に返ると、このようなのんびりした時代は古臭く感じられ、いえ、古い話しなのですが、現代社会では不要かもしれません。先日Twitterで小室直樹さんが亡くなったという話が持ち上がり(デマなのかどうか未確認)、古きよき時代を思う私がTwitterで語れなくなってしまったのがちょっとありました。寂しさなのですが、懐かしさのような。そして、小室直樹さんの動画を見ていたら、若い人達は、その姿を初めて観たとか、亡くなったと聞いてどれほど偉大な学者だったかを知ったという若い人の反応に対して、気持ちがぐっと引いて行くのを感じました。老いることに引け目を感じるような感覚なのですが、社会で老人と呼ばれる自分を想像したくなかったのかもしれません。
彼は、日本にキリスト教が根付かなかったのは、それが「科学」と言いかえられた「何らかの宗教的なもの」による宗教対宗教の対立ではないかと見ている。そして、日本人とっての進化論の受容というのも、実は、ある種の伝統的な宗教的な世界観の表出にすぎないだろうともしている。
昭和天皇がダーウィニストであることに違和感のない精神性こそ日本文化そのものであり、そして、たぶん、山本七平が指摘した状況は、なお現代日本にも、若い人にすら、当てはまっているように思える。
この最後にかかれた一文に力を感じるのですが、「なお現代日本にも、若い人にすら、当てはまっているように思える。」という感覚が、前段で私が思っていたことなので、そう思う私が実は引いてしまう今なのです。時代の差と相互理解を寸断してしまうほどかけ離れてしまっているのは私なのだと、その自分が恐怖なのだと気づいたのです。
おかしな巡り会わせですが、二人の対談が面白おかしく感じられる私って古いんだぁと実感しました。山本七平さんの本はもう古いと言われるところなのでしょう。ですが、私にとっては、父親から知識を学ぶような感覚で二人が入ってくるので心地よくてたまらないのです。
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