「100万回いきたねこ」に触れて:佐野洋子
人の死後、魂は宿るのだというような些か現実離れしたことを考えるのは、それだけでなんとも寂しく、悲しい思いが戻ってくるので嫌だなと思っていた。そこに、「百万回猫」という言葉が飛び込んできた。これは、佐野洋子の絵本の題名の略で「百万回生きたねこ」のことだと直ぐに分った。因みにこの絵本のタイトルは、当初「100万回死んだねこ」だったが、教育上の問題から改名された。
この絵本の話にまた、泣ける。私にとっては。なんだか佐野洋子さんの絵本やエッセイを思い出したので少し書いておこうかと思った。
絵本の解釈は人それぞれでよいと思うが、この絵本に出てくるとら猫の人生から「愛」を描いている部分がとても泣かせる。
100万回生まれ変わっていろいろな飼い主に飼われているのだが、死ぬたびに飼い主がこの猫の死を悼み悲しむ。その気持ちは、この猫には伝わらなかった。100万回生き返っても。
あるとき、誰の飼い猫でもなくなって野良猫として生まれ変わった時、白い猫に恋してしまう。ここの描写が可愛い。純粋に恋をしてしまったとら猫は、相手の気持ちが自分に向くように一生懸命になる。その甲斐あってとら猫は白い猫とずっと一緒にいられるようになる。
白い猫は沢山子どもを産んだが、年老いて、ある日とら猫に寄り添って死んでしまう。このときとら猫は、初めて悲しみを知り、「愛」を知った。昼夜、100万回泣き続けた。そして、とら猫もとうとう白猫の隣で動かなくなり、それ以後生き返ることはなかった。
輪廻転生を繰り返す話から「愛」を描いた作品だが、なんとも悲しい。「悲しみ」や「愛」を十分知ったら、人の一生は終わってもいいのかもしれないが、先逝く人のことを思うと悲しい。愛する人の死で初めて悲しみを知るというのは痛烈なことだ。そして、どれほど愛していたかを知るということなのだと改めて思うと、なんとなく気持ちが沈んだ。亡くなってから気づく、人の哀れさか。このようなことに触れると引き出されてしまう私自身の孤独感に、また向き合うのかと思うと、それが苦痛に思えてくる。
佐野洋子といえば、「シズコさん」が泣ける。ねじくれた母親との関係から、娘の素直な心の奥底を語っているが、しゃくるほど泣ける。以前極東ブログで触れていたのを思い出して探してみると、これまた懐かしい方々がコメント欄にいらした(参照)。佐野洋子さんのエッセイは男性にも人気があるのだろうか。
私の母が満州から引き上げてくる時と似たような経験が、洋子さんにもあることを知った(参照)。私の母が中国から引き上げてくる時の引き上げ船で、8人兄弟の末っ子の赤ん坊を腕に抱いていた。その弟は高熱の病気にかかっていて、抱かれたまま亡くなったそうだ。母はその後、そのことについて自責の念を抱いていたが、洋子さんは少し違う。その思いは、母親とのねじくれている関係からだと分った時、愛情に飢えた気持ちを引きずって生きた人生の一部が、文章に露になったのだと知った。そして、読後、私が母親を嫌いだと本当に思っているのかどうなのかがよく分らなくなった。この本を読むまではそう思っている節もあったが、洋子さんのねじくれ加減を知ると、私などは足元にも及ばないと思った。壮絶な人生が傍らにあり、「愛」にも飢え、そこから滲み出るメッセージは、私の心の深いところで痛く、鋭く感じる。
100万回いきたねこ(転写)
100万年も しなない ねこが いました。
100万回も しんで 100万回も 生きたのです。
りっぱな とらねこでした。
100万人の 人が そのねこを かわいがり
100万人の人が そのねこが しんだとき なきました。
ねこは 1回も なきませんでした。
あるとき ねこは 王さまの ねこでした。
ねこは 王さまなんか きらいでした。
王さまは せんそうが じょうずで いつも せんそうを していました。
そして ねこを りっぱな かごに いれて せんそうに つれていきました。
ある日 ねこは とんできた やに あたって しんでしまいました。
王さまは たたかいの まっさいちゅうに ねこを だいて なきました。
王さまは せんそうを やめて おしろに 帰ってきました。
そして おしろの にわに ねこを うめました。
あるとき ねこは 船のりの ねこでした。
ねこは 海なんか きらいでした。
船のりは せかいじゅうの 海と せかいじゅうの みなとに ねこを つれていきました。
ある日 ねこは 船から おちてしまいました。 ねこは およげなかったのです。
船のりが いそいで あみで すくいあげると
ねこは びしょぬれになって しんでいました。
船のりは ぬれた ぞうきんのようになった ねこを だいて
大きな声で なきました。 そして遠い みなと町の
こうえんの 木の下に ねこを うめました。
あるとき ねこは サーカスの 手品つかいの ねこでした。
ねこは サーカスなんか きらいでした
手品つかいは 毎日 ねこを はこの中に 入れて
のこぎりで まっぷたつに しました。
それから まるのままのねこを はこから とりだし はくしゅかっさいを うけました。
ある日 手品つかいは まちがえて ほんとうに ねこを
まっぷたつに してしまいました。
手品つかいは まっぷたつに なってしまった ねこを 両手に ぶらさげて
大きな声で なきました。
だれも はくしゅかっさいを しませんでした。
手品つかいは サーカス小屋の うらに ねこを うめました。
あるとき ねこは どろぼうの ねこでした。
ねこは どろぼうなんか だいきらいでした。
どろぼうは ねこと いっしょに くらい町を ねこのように しずかに歩きまわりました。
どろぼうは いぬのいる 家にだけ どろぼうに はいりました。
いぬが ねこに ほえている あいだに
どろぼうは 金庫を こじあけました。
ある日 ねこは いぬに かみころされてしまいまいした。
どろぼうは ぬすんだ ダイヤモンドと いっしょに ねこをだいて
夜の町を 大きな声で なきながら 歩きました。
そして 家に帰って 小さなにわに ねこを うめました。
あるとき ねこは ひとりぼっちの おばあさんの ねこでした。
ねこは おばあさんなんか だいきらいでした。
おばあさんは 毎日 ねこをだいて 小さなまどから 外を 見ていました。
ねこは 一日じゅう おばあさんの ひざの上で ねむっていました。
やがて ねこは 年をとって しにました。
よぼよぼの おばあさんは よぼよぼの しんだねこを だいて
一日じゅう なきました。
おばあさんは にわの 木の下に ねこを うめました。
あるとき ねこは 小さな 女の子の ねこでした。
ねこは 子どもなんか だいきらいでした。
女の子は ねこを おんぶしたり しっかり だいて ねたりしました。
ないたときは ねこの せなかで なみだを ふきました。
ある日 ねこは 女の子の せなかで おぶいひもが
首に まきついて しんでしまいました。
ぐらぐらの頭に なってしまった ねこを だいて
女の子は 一日じゅう なきました。 そして ねこを
にわの 木の下に うめました。
ねこは しぬのなんか へいきだったのです。
あるとき ねこは だれの ねこでも ありませんでした。
のらねこだったのです。
ねこは はじめて 自分の ねこに なりました。
ねこは 自分が だいすきでした。
なにしろ りっぱな とらねこだったので りっぱな のらねこに なりました。
どんな めすねこも ねこの およめさんに なりたがりました。
大きなさかなを プレゼントする ねこも いました。
上等のねずみを さしだす ねこも いました。
めずらしい またたびを おみやげにする ねこも いました。
りっぱな とらもようを なめてくれる ねこも いました。
ねこは いいました。
「おれは 100万回も しんだんだぜ。いまさら おっかしくて!」
ねこは だれよりも 自分が すきだったのです。
たった 1ぴき ねこに 見むきも しない
白い うつくしい ねこが いました。
ねこは 白いねこの そばに いって
「おれは 100万回も しんだんだぜ!」 と いいました。
白いねこは
「そう。」
と いったきりでした。
ねこは すこし はらをたてました。
なにしろ 自分が だいすきでしたからね。
つぎの日も つぎの日も ねこは 白いねこの ところへいって いいました。
「きみは まだ 1回も 生きおわって いないんだろ。」
白いねこは
「そう。」
と いったきりでした。
ある日 ねこは 白いねこの前で
くるくると 3回 ちゅうがえりをして いいました。
「おれ サーカスの ねこだったことも あるんだぜ。」
白いねこは
「そう。」
と いったきりでした。
「おれは100万回も・・・・・・。」
と いいかけて ねこは
「そばに いても いいかい。」
と 白いねこに たずねました。
白いねこは
「ええ。」
と いいました。
ねこは 白いねこの そばに いつまでも いました。
白いねこは かわいい 子ねこを たくさん うみました。
ねこは もう
「100万回も・・・・・・。」
とは けっして いいませんでした。
ねこは 白いねこと たくさんの 子ねこを
自分よりも すきなくらいでした。
やがて 子ねこたちは 大きくなって それぞれ どこかへ いきました。
「あいつらも りっぱな のらねこに なったなあ。」
と ねこは まんぞくして いいました。
「ええ。」
と 白いねこは いいました。
そして グルグルと やさしく のどを ならしました。
白いねこは すこし おばあさんに なっていました。
ねこは いっそう やさしく グルグルと のどを ならしました。
ねこは 白いねこと いっしょに いつまでも 生きていたいと 思いました。
ある日 白いねこは ねこの となりで しずかに うごかなく なっていました。
ねこは はじめて なきました。 夜になって 朝になって
また夜になって 朝になって ねこは100万回も
なきました。
朝になって 夜になって ある日の お昼に ねこは
なきやみました。
ねこは 白いねこの となりで しずかに うごかなくなりました。
ねこは もう けっして 生きかえりませんでした。
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コメント
おはようございます、
私も佐野葉子さんの「百万回生きた猫」大好きです。「シズコさん」を読んでものすごく衝撃を受けました。
http://bit.ly/9oirjF
ここに出てくる「男」というのが谷川俊太郎だと知ってますます驚きました。
何回生きても、いくつになっても、愛されることって必要なんだなってつくづく思います。
投稿: ひでき | 2010-08-10 06:44
この記事と直接関係ないのかもしれませんが、可愛げのない猫と洪水のエントリーを書いてみました。
それ書いてる時にgodmotherさんのこの話がふっと出てきて、うちの猫がつぶやくんですよね。
その洪水がやってくることは猫にはとっくに分かっていた。
何があっても100万回生きた猫の話も伝説には聞いていた。
でも自分はただの年老いた猫で、身体もろくに動かず、したがって獲物も取れず、餌を持ってくれるほど可愛がられるたぐいの輩でないことも重々承知していたので、
かえってサバサバした気持ちではあった。
自分は、洪水が来たら真っ先にさらわれて流されて無に帰するだろう、と。
そして100万回生きた猫は幸せに普通の猫として死んだってこともちゃんと知っていた。
・・って。
こう言うのをホントはTBって言うのかもしれないな、とか思いつつ。でも趣旨が違うしなあ、というわけで、リンクさせてください。
心を鷲掴みにする話をありがとうございます。
http://ulalaulala.jugem.jp/?eid=982
投稿: ulala | 2010-08-14 09:57
ulalaさん、こんにちは。泣かせちゃいました?また、ulalaさんのお話も素敵です。殺伐とした世間の風が突き刺さるような時に、悲しいけれど心洗われて、ある意味すっきりしますよね。「また、最初から気持ちを入れ替えよう」って気になります。
TBなどは、堅苦しくお考えなることもないですよ。ここはどの道あれやこれやと既に散らかっていますが、それでもよろしかったらどうぞ送信ください。記録ですから。
投稿: ゴッドマー | 2010-08-14 11:11