2010-08-15

極東ブログ「なぜ月遅れ盆なのか?」から「帰省」について思うこと

 娘がお盆で東京から帰ってきている。久しぶりだ。息子も大学の友人を三人連れて帰ってきている。昨日、お盆の帰省の意味や時期についてを振り返ったばかりだが(参照)、私自身に田舎というか故郷と呼べるものが無いせいか、我が子らがそれぞれの思いで帰省する今を将来どのように思い出すのだろうかとぼんやり思っていた。
 故郷がある人生というのは、私にしてみれば羨ましいことでもある。帰る家があるということだが、そういえば、猫は家につくといって、犬が人になつくのとは正反対の性質を持っている。故郷を持つというのは、どちらかというと猫だと思った。この思い方がある意味、私の気持ちを軽くさせてくれたことに気づいた。
 実家には私は居るべき人間なのだ、という考えに少し縛られていた嫌いがあった。いつか、ずっと前に、また子ども達が本当に幼い頃思ったことに「この子らがいつか家を出て行ってしまう時、ここに私が居て、子ども達の帰りを待ってやらなくては」と、思っていた。その思いは何がきっかけだったのか考えてみると、子離れできていない親としての思いだったと思う。子育てに展望があり、どんどん大きくなって育って行く姿はまぶしいくらい嬉しい光景でもあるが、反面、子ども達との距離が開くことである。遠ざかって行くことと等しいのだ、と、どこかで納得していた私だった。まあ、母というのは、子どもを産み落とした瞬間から子どもを離しているわけで、子育ての目標とは、その子が社会生活ができる大人になることだと思っている。だから、所有物ではないし、私有もできない。このように考えが固まってきた頃から、彼らにとっての田舎を私が守るというような思考回路はなくなってきている。彼らにとっての田舎、または実家というのは彼らの心の中にあることであって、私が守るべきものでもない。にもかかわらず、何故か自分の気持ちが居座ろうとする部分もある。
 この辺を分離して考えられるようになると、私は私のために生きるのだということがはっきりしてくる。少し前に書いた「しがらみ(参照)」が根深いのかどうなのか?というような疑問の答えがうっすら見えてくる。人の心の置き場はその人のものであって、私がなんとかできる問題ではないのと同時に、私は私のことをあくまでも考えることなのだと、そう思う。
 コンプレックスではないが、自分にないものを人が持っているような時、それを自分に置き換えて考えるのは難しい。判断もできない。そこを、「私はどうしたいのか」という一点だけに絞って考え通すのは冒険的だった。ここへ来て、彼らの帰省やその姿に触れて、だから見えることはあったと思う。

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