困ったことに
このところ買い込んでいた書籍を読み終え、目の前にあったいろいろなことが少しずつ片付き始めている。することを探す時は自分が生きているという跡を残さないといられないということだと思う。誰も皆そうなんだろうか。
「開放」という言葉は、酷く傷つく言葉だと思った。まるで飼い猫を家に閉じ込めていたかのような、その猫が逃げ出す隙を狙っていたのを「知っていたよ」と言っているような、そんなふうに感じた。
昔飼っていた小さな犬が、玄関のドアーが開いた隙に庭に出たまま行方が分らなくなったことがある。逃げたのではない。庭で用足しをする習慣から、ちょっと出ただけだったと思う。犬が外に出たことに気付かずに玄関のドアーを締めてしまい、そのまま犬は外に置き去りにされた結果、どこかへ行ってしまった。しかも、その家は犬が飼われいた家ではなかった。たまたま遊びに行った先の家で、犬にとっては始めての家だった。
それから四年ほど経って、その犬を拾って飼っていたという人物から犬が戻された。よろよろしながら歩くその犬は、もう寿命でもあったと思うが、それにしても美しかった毛並みの面影はなく、まるで薄汚い綿を丸めたような姿で、眼球は傷つき、見えていないようだった。名前を呼ぶと反応した。自分の名前を呼ばれることは四年間一度もなかったはずだが、その痛々しい姿から放浪の厳しさを教えに帰ってきたのかと思った。10日後に、静かに死んだ。たまたま弱りきっていたところで戻ってきて、飼い主の私のところで死んだということだろうと思ったが、あまりにも偶然が重なり、因縁を思わないでもなかった。
生き物の最期をみとるのはもう嫌だと思い、あれから犬は飼えなくなった。よくよく考えると、それは、生き物を飼って自分の慰めにするのはもう沢山だと言う思いからだということに気づいた。とはいえ、人が生きることや死を認めるためには、虫や動物の生態やその死に遭遇することは大切なことだ。ペットを飼うということは、確かに癒されるし、気持ちも和む存在だ。ペットというのはそうやって生きていれば良いのかもしれないし、死んだら代わりの犬を宛がえば良いだけかもしれない。そのようにあっさりと考えれば良いだけではないのか、と、そうも思いながら、生き物が可愛いだけに心で葛藤する。誰かが私に犬をあげたいと思っているということを聞いて、嬉しい反面困惑している。
どちらかというと、慰め物にしたくないという気持ちのほうが強い。不憫でならない。昨年のことだが、とても印象に残っているコメントがある。まあ、人間がどれほど自然を破壊してきたかというと、無意識の罪と言うことを考えさせられた。
いつも不思議だと思うのだが、万物に八百万の神とか自然に親しみとかいうけど、その自然がこの数日どんなに荒れ狂って人間を殺傷しているのか、というか、普通に人間の営みというのが自然に向き合うことだという認識がぽかんと欠落する人はどうなんだろ。というか、八百万の神が荒れ狂っているとでもいうのだろうか。普通に人間存在というのが反自然的であり、その分人間は自然の過酷さに向き合って生存してきたのに。(参照)。
そういえば昔読んだペーパーバックの「They Cage the Animals at Night (Signet)(ぬいぐるみを檻に入れられて)」という本を思い出した。初めから最後まで泣けてどうしようもない内容なのだが、好きな本だ。
施設で預けられて育った男の子が、その施設を「檻」のように思うことと、大切だったぬいぐるみの存在とが重なる。男の子の語り口は飾り気がなく、施設の人間関係を率直に子どもの見たまま語っている。恵まれない生涯にも関わらず、悲しみや寂しさをひけらかさないのが子どもらしく、それだけに心を揺さぶられる。確か日本語版は暮らしの手帖社から出ていたと思う。
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