極東ブログについたブックマークコメントから思うこと
昨日は、久々に腹が立った。その怒りは、極東ブログのエントリーについたブックマークに始まった。人事とは言え、同年代でNetに息づく仲間としても応援している私でもあるので、あのブックマークコメントには些か我慢がならなかったのです。とは言え、ブロガーは自己責任においてブログを管理しているので、エントリーや自分自身に如何なることがあっても自分の責任で解決するというお約束が暗黙にあります。だから、個人的に擁護するような、または、援護射撃するような言葉をかけたりするのは、相手のブロガーに対して失礼に当たると思うのです。ヘタな同情は禁物のようにも思うのです。ですから、そういった意味合いではなく、書き手のテーマに絞りたいと思います。ついでに言うと、極東ブログの管理者は、如何なることがあっても他人に向けてその責を追求するような人物ではないので、擁護などは不要としているでしょう。ここに書くのは、あくまでも私個人の思いです。
対象のエントリーは
➠菅さん、衆院解散しちゃいなさいよ
➠ブックマーク
➠コメント pompom20 これはひどい, あほか 偏向ブロガーfinalventと、それに同調するブコメが頭悪すぎて笑える。頭の悪い人ほど小沢氏を叩く、という構図が良く分かる。「小沢独裁」なんて言葉を使うのは思考停止の証拠。
➠この人物の当日のエントリー
ブックマークコメントを発見した段階では、エントリーの内容についてのコメントではなく、書き手と、それにコメントを寄せている読者に対する罵倒でしかない。一番ダメージを感じるのはブログの読者に対する罵倒で、ブログを運営している自分の支えでもある読者にまでこのような言葉を吐かれると、庇いきれないだけに本当に無力を思う部分だと思うのです。自分が言われるのとは違った意味での辛さを感じる部分です。
書き手の究極の願いとして、何を伝えたいか?ということと、どのように伝わるか?ということが一致しているのが望ましい事です。それが「書く」ということの永遠のテーマというか、書いているうちにどんどん絞られてくるのです。極東ブログは、自分の感情を露に書いて、ストレス発散のためのガス抜きをしているブログでもブロガーでもないことは、読めばわかるとおりです。読み手を意識して書いているのはわかるはずです。つまり、個人的な日記ではなく「読み物」なのです。しかも、日替わりで、話題の豊富さやその質に関しては本当によく調べられている優れた内容だと思います。
だから悩むのです。読み手にどのように届けるか?書き方や読みやすさなどの手法は様々ですが、そのことよりも何を伝えたいかという点が一番難しい。例えばニュースを取り上げても、そのニュースで何を伝えたいかという的は、ブロガーによって人それぞれです。ニュースは出来事を事実に則して正確に伝えるという公共性の上に立った目的がありますが、ブロガーは自由といえば自由の身ですから、だから自問自答の毎日です。その自問自答の末、読者が減るのか増えるかという結果がついてきます。どうせ書くのなら、多くの人の関心事とするというのも一つの方向性ですが、多くの人の心を掴むようなブログというのは、それなりの心もあるものです。
その反面、届かない空しさもあります。今回のようなブックマークコメントがつくと、「書くだけ誰にも届かないというか、届く分だけ悪意にも向き合うような疲労感」がずっしり来るのです。悪意を買うために書いたという無駄をやっただけのような疲労感はどうしようもなく、消せないし、どのような慰めも無駄です。何故って、書く事がテーマというか手間だからです。私も少し前までは「書く」ということについて悩みました。今でもそうですが、ある意味では悩まなくなった部分もあります。 最近気づいたのですが、世代的に理解し合うのは不可能の域があるということです。
ある一定の年齢になれば子どもも大人の考えがわかるようになるものだ、と、私たち世代はそう育ってきました。早分かりする必要はないのだということです。いつか大人になったら分ることなのだと、楽しみだったように思います。大人の話がわからないのは、それは自分自身の未熟さをを思い知る体験にもなったのです。だから、昔理解できなかった小説も、何年も後から読み返すと違った解釈になったり、だんだん理解できるようになるというのもあります。すると、それが大変嬉しい喜びになるものです。
このようにゆっくり成長してきた私たち世代が、一方でブロガーとして書き手に回ると、今すぐ理解されないということへの恐れは持つ必要はないのではないかと思うのです。むしろ、いつか理解されるであろうその時に、それが普遍の真実であることが求められていることではないかと思っています。
一昨日紹介のあった、加納明弘、加納建太の「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!」(参照)が、まだ届かないのでNetのブログ(参照)で読んでますが、あの全共闘世代の親父とその息子建太のやり取りからすると、情けないくらい息子は親父さんの話の文脈が分っていないのです。演出的に意図しているのかもしれませんが、実際、親子ほども年齢が違うと、いろいろ行き違いもあるという例でもあります。世代的な格差に加えて、経験や知性、教養の違いは埋められません。分らない方が分ろうと努力を払うほか、方法はないと思います。書き手も、伝わっていないと知れば、そこで伝えるべく書き方の努力はするものの、それでも埋まらない格差というのはあります。
冒頭に取り上げたブックマークコメントに話を戻すと、小沢サポーターであるというのはこの人のブログを読めば分るとおりで、きっと、小沢批判に耐えられないだけでしょう。それ自体を否定するものでも批判するものでもありません。文脈から、きっと今の日本にうんざりしている一人なのだと思います。そして、強烈な小沢サポーターかな。そこにしがみついて、露払いをして自分自身を守っているのでしょう。それこそが偏向というもので、それは一目瞭然です。また、だからでしょう、極東ブログの該当エントリーの文脈を読まれてもいない。そうやって他人を罵倒して傷ついているのはご自身です。それに気づかずに死に逝く人もいます。お気の毒ですが。
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