極東ブログによって塗り替えられた私の「歴史」
「歴史」という教科についての話だが、わたしにとって歴史という教科がいかに苦手で嫌いな教科だったかを書きたいわけではないが、そのことも少し書いておきたい。それを語らないと次へ進めそうにない。暗く重たい話にはしたくないなぁ。
7月の中旬過ぎから極東ブログで始まった1700年代の医療の話や、最近のフリジアの帽子の謎解きなど(参照)を通して、歴史が非常に面白くなった。これには、私自身がびっくりしている。青天の霹靂とでも言うか、とにかく私の関心が歴史に向こうとは思いもよらないことだった。
前にもどこかで書いたような気もするが、私は中学から突然学校の成績が上がりだした。小学生の頃は、学校で勉強したことなど何も覚えていないし、なんだろう、学校の勉強とはあまり関係のないことばかりを覚えている。それでも、物事への興味はかなり旺盛で、小学校の先生に物事の不思議を尋ねてばかりいた。そして、もしやと思ったのは、その先生に中学生になるとそういう勉強をするよ、と言われたことで中学生になることが楽しみだった。「もしや」というのは、このことが学習意欲につながり、中学で成績が上がった理由の一つになったのかもしれないからだ。物事の不可思議の解明のために学習するというきっかけになったのではないかということだ。一度このレールに乗ってしまうとどんどん加速する。学校の勉強だけでは物足りなくなり、読書へとさらに興味が向く。
このような中学時代でも、一番つまらなかった授業が歴史や政治だった。幸か不幸か、ここでよく取り上げるのだが。試験前にノートをチェックし、教科書さえ読んでおけばそこそこの点は取れる。平均点を落とさないためだけに、試験前だけはきちんと暗記をした。こういう感じに、教科としてはそう取り組み、学習意欲は殆どなかった。何故そうなったのか?結局授業の内容が、教科書だったからだ。教科書を読めば先生の話を聞かなくても分ったからだ。ここに掘り下げた話や、逸話、秘話などの面白さの一つでもあったら、暗記などしなくても頭の中に印象づけとして入ったことだと思う。教え方のテクニックを批判するという意味ではなく、子どもなら誰でも同じだ。授業が面白いというのは、その先生の知識が表出される時、その話に入り込み、頭の中でのイメージ化が面白いからだ。社会科が他の教科とは違うのは、歴史を知る面白さを掴まなければ知りたいという関心が向かないのだ。因みに、数学や英語は、先生の説明無しでは前に進むための知識が得られないから話を聞かざるを得ない。逆にいうと、先生が面白くなくても教科そのものに深める面白さがある。
一度だけ、哲学的な勉強をしたいと思ったことがあった。それは、高校の一年だけの教科で倫理社会を受けた先生の影響だった。教科書はあったが、授業の最後5分くらいで通読して終わる。授業の大半は、先生の面白い話だった。「俺のこと呼ぶ時は、実存主義者が歩いてきた、と言ってくれ」と、馬鹿げたことを言う先生だった。玄米が大好きで、七輪に炭を熾す話から始まり、炭の選び方、玄米の洗い方や炊き方のすべてを二時間も話し、それで授業が終わる時もあった。が、最後に読む5分の通読が異常なほど頭に残った。そして、ふと気付くと、教科書に書いている内容が、玄米の話の何処かに刷り込まれてたことに気付く。そして、それが新鮮な形として教科書から浮かび上がるから不思議だった。ネタの仕込み方が抜群の先生だった。クラスの大半は、この先生の授業が面白くないと言っていたが、私は、この先生のお茶目なネタの仕込み方に気付いてからは、大好きな教科になった。ヘーゲルの弁証法から、物事に対しての違った角度からの見方や、否定から物事の関係性を調べることなどについて興味を持った。
さて、高校での歴史についてだが、授業はつまらなかった。片や、倫・社のような面白い先生もいるかと思うと、そのギャップが私に勉強をしなくてもよいという言い訳を作らせたのだ。大学の受験は三教科に絞ればよいのだし、とか、既にそう諦めていたのもあった。今更だが、あの教科だけは、教師が歴史にどう向き合ってきたかということが歴然とする。それが授業の実態とイコールなので、授業が面白くないのは教師が教科書以外の学習をしてこなかったのではないかと思う。救いようのないほど、歴史が面白いなどとは思ったこともない。
これらの経緯からこともあろうか、歴史的人物や出来事が面白くなったというのだ。これ自体が嬉しい。大昔のことではあるが、苦手としてきたことがここで塗り替えられたのだ。こんなに嬉しいことはない。人生の汚点や汚名、またはコンプレックスとまでは行かないが、他の教科では抜群の成績だった私にとっては、暗記さえすればできる教科だと高を括っていたことが後で仇となり、結局自ら捨て去ったのだ。一つが中途半端だと全部が中途半端だ。完璧主義ではないが、似ている。何故、他の教科のように意欲が湧かないのだろうかと悩んだこともあった。結構苦しい思いがあった。それが、解決した喜びなのだと思う。この嬉しい気持ちは。
極東ブログの歴史エントリーにはネタがきちんと織り込まれていて、それが見つかる時は、腹にすとんと落ちる快感がある。これだ。歴史に残った様々な出来事が、たった今、目の前で起こったことのように身近に感じるとき、初めて大昔の出来事として「歴史」という認識になる。
人生には、生きていると何が起こるかわからないものだと思った。
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