2010-08-03

極東ブログ「マリアンヌとコロンビア、国家の擬人化、理性教というカルト」すごい展開だこと

 昨日の極東ブログのエントリーの続きが予告されていたのは気付かなかった。加筆したそうだ。その続きを早速読んでみて、私の調べ方が片手落ちだったのに直ぐに気づいた。まあ、片手もあったものじゃないくらいのド迫力な内容なので感動した(参照)。
 消化不良気味だった部分へまず話を戻すと、アメリカの自由の女神像はフランスのマリアンヌ(自由の女神)をモデルに建造され、アメリカの独立記念に寄贈されたものだ。その自由の女神像は七つの突起物のあるクラウンを被っている。一方、モデルとなったマリアンヌ像はフリジア帽を被っている。何故アメリカの自由の女神像はフリジア帽を被っていないのか?という疑問だった。その疑問を解く鍵となったのは一枚の絵だった。
 ジョン・ガストが1872年ごろ書いた"American Progress"、コロンビア、と呼ばれる絵がそれだ。この名前がまた、日本の駄洒落みたいで面白い。アメリカ大陸発見のコロンブスにあやかって女性の名前に捩ったそうだ。女神の名前はコロンビア。それに、ここがもっと大きな鍵なのだが、フランスでもアメリカでも女神は何の象徴かという問題だ。

Megami06

 「アメリカ的進歩」と訳すと誤訳ではないがわかりづらくなる。"American Progress"は、「アメリカなるものの前進」で、この女神がアメリカなのである。もちろん、それは象徴としてということなのだが、少し踏み出して言うと、この女神の名前がアメリカ、というか、国家を国家たらしめる精神が女神なのである。
 これはドラクロアの絵の女性、マリアンヌがフランスであるということと同じ仕組みだ。これも踏み出して言うと、あの女性の名はフランスで、愛称がマリアンヌといった感じだ。

 では、アメリカの女神の名前はということ、これはコロンビア(Columbia)(参照)である。コロンブスから女性の名に見立てたものだ。現代日本風に言えば、萌え擬人化である。ついでに余談めくが、日本国の象徴が天皇だというのは、マリアンヌやコロンビアの横並びでもあるということだ。まあ、天皇に並べるならアンクル・サムであろうか。

 「国家を国家たらしめる精神が女神なのである」が重要な部分だ。私の今朝ほどのエントリーではかなり端折って書いてしまったが(参照)、それぞれの女神の違いについてこう書いている。

 自由の象徴として、フランスのマリアンヌがモデルとなって自由の女神像が作られたのはそうだが、革命的な意味合いよりもアメリカの独立記念に寄贈するという意味では、フリジア帽ではなく七つの突起物にシンボルされたのではないかと単純に思った。それに関しての文献はまだ出てこないが、きっと何処かにあるのではないかと思う。

 フリジア帽がある理由とない理由をそれぞれの国の女神の歴史的背景として考えず、あくまでもドラクロワのかいたマリアンヌが最初だと思い込んだところが間違いだった。ガストの絵の女神を別に考えたとしても、きっとフリジア帽に固執していたのではないか?自分。と思った。
 極東ブログの本文にもあるが、コロンビアがアメリカの女神として意識され出したのは1740年ごろからだということは、つまり、フランス革命の前でそれが「ガリバー旅行記」が背景にありそうだと言うことだ。なんとまあ。ここでガリバー漂流記の内容を思い出せないでうろたえた私。しばーらく固まっている間に、その前の部分が何処までだったのかがすっ飛んでしまい、最初から読みなおししたほどだ。
 結局、建造する時点でいろいろなことが意識された結果、マリアンヌに似てはいるが、アメリカの自由の女神がフリジア帽を被っていない理由を探すよりも、クラウンになった理由は、当時のアメリカ人が国家をどう見ていたかということがそのまま女神像という象徴的な姿になったということだと思う。フリジア帽の件はこれにて一件落着。
 ほいで、まだある。続々と出てくる。
 「何故女神なのか」ん?そんなこと今更聞かないで、と言いたくなるような素朴さに唖然。そうだ。そゆことに疑問を持ったことがなかった。考察力のレベルの違いなので仕方がないとしても、確かにこの女神様って何者よ?

答えは、そもそもLibertyが「自由」という概念ではなく、自由という女神だからということだ。起源的には、ローマ神話のリベルタス神である。もっとも、リベルタス神は、自由というものの権現と見なすこともできるが、重要なのは、リベルタス神の実体的な信仰が存在したことだ。これがなぜか、西洋近世において、復活したことにある。

 ところが、この復活の時点で「自由」とは違う「理性」という解釈に変わったというのだ。先のガストのかいた絵のコロンビアが右手に引っ掛けている束は、「理性の象徴であるトーチ」の電灯線だというのだ。はっきり言って、なんじゃこの絵は!と最初に見た時違和感があった。なるほど。違和感も絶頂に達してきた。電灯線を持った女神とはね。
 また、マリアンヌの話に戻ったと思ったら、フランスとアメリカは理性教というカルトから生まれたというのだ。私のカルトの解釈が間違っているのかと思ったぢゃない!というくらい驚いた。「理性という神に従って破綻を行うことが自由」なのだ、ちうから驚きだ。ほいで、まだある。  

マリアンヌ神と理性のカルトは、ぶっちゃけていえば、1848年の2月革命・3月革命を経て、マルクス主義に内包されていく。そしてエンゲルスによって「理性」は「科学」に書き換えられる。科学的でないものは、暴力的に攻撃することが理性教カルトの継承の特徴であり、それは後の歴史にも継承されていく。今でもそうなのかもしれないが。

 「今でもそうなのかもしれないが」って、なにが?と思ったが、ホメオバシーなどはその良い例ではないかと思った。概念が塗り替えられた上、擬似医療だと叩かれて大騒ぎしている。宗教というよりも、人々の思い込みは、得てして「宗教的態度」といわれるような代名詞として言葉が勝手に泳ぐのかも知れない。
 一方、西部開拓を導いたコロンビアの方は第二次世界大戦まで続いたというのは分るが、何故これがアメリカのへフナーが創刊したPLAYBOYのPLAYGIRLSになっちゃうの?

1953年にへフナーが創刊したPLAYBOYのプレイガールズとなっていったのではないか。ドラクロアのマリアンヌ神がトップレスなのは、母性のシンボルであったが、コロンビアもその時期からは母性・あるいは女性性なくしては、「明白なる運命」の実践が難しくなったのだろう。

 というか、アメリカに自由の女神像ができてから、あの電線を引きずったコロンビアはシンボルとしての役割が変わったということ?女性の尻を追っかけまくる西部開拓の荒くれ者達が脳内にイメージ化されてしまうのだが・・・・変かしら。
 ふー。面白かった。

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