もう一度聞いてみる。そして、書いてみた。
どうして?って聞かれるから塞いでいる理由を話すのだけど、理解してはもらえない。だからだと思う。終いには怒り出す。だから、聞いても同じなのに。
愛情に飢えていつも寂しさを抱えてるような心と、それを見せないように振舞って生きてきた我慢強さの裏側を分るわけがない。このニ十数年、これが理解されていればこうはならなかった。言い換えると、理解されていれば人生が変わっていただろうと思う。
自分のことを考えてみた。
こういう寂しさのようなことをあからさまにしない理由は前に書いた。強くは無い。崩れ落ちるのも怖い。崩れてしまったら自分がどうなるか、そんな姿、想像もできない。崩さないことで何がバランスできたのか?そこまで素っ裸な自分を見せたところで、それが何のためにもならないと思い知ったことがあまりにも多過ぎた。それは何?と聞かれるならいくらでも答える。でも、理解されない。それを理解されないことにはもう馴れた。今から始まるわけも無い。
悟ったからといって、だからって何もできない。何をどう理解して欲しいのかを言っても、それも理解できないと。だからって、困らない。問題はずっとそのままだし、解決なんてできない。分ってもらうこと、理解されることの前に、そんなことは分らないと思い込む前に、どうなんだろう?という余地を残すことだけでも救いなのだけど、それも無い。ここまでなのかな。
この先何十年も無理解という檻に囲われた生き物として生きて行くことに自信が無いだけだ。そのことを諦めてはいけないというのだろうか。初めて諦めを認めるのがこんなことだけど、これが敗北なのだろうか。仮にこれが敗北で、また私は立ち上がるのだろうか。
若い頃にこのことに自分自身が気付いていたら、このような生き方はあるいはしなかったのかもしれない。戻れるわけではないのだけど。人生の後半に来たからこそ、ここまで生きてきたからこそ気づいたことなのかもしれない。だとしたら私はそのことに感謝すべきかも。
もう一度聞いてみる。
ダンスのように抱き寄せたい
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