2010-08-09

死刑執行に起こる批判について、冷泉彰彦氏の考察を含めて考えてみた

 死刑反対派の集会で、死刑執行に立ち会った千葉景子法相に対する批判が高まったというニュースを知って、なんとなく胸の中でざわめくものがあり考えてみた。

➠7月に行われた死刑執行について、集会で抗議する保坂展人氏=8日午後、東京都文京区(47ニュース)

 民主党政権下で初めてとなった7月の死刑執行を受け、人権団体や弁護士らが東京都内で抗議集会を開き、「死刑廃止を推進する議員連盟」のメンバーだった千葉景子法相が執行に踏み切ったことに批判が相次いだ。

 死刑廃止運動の中心的存在として知られる安田好弘(やすだ・よしひろ)弁護士は「法相は以前『在任中に、死刑制度廃止の小さな芽を残したい』と言っていたが、執行した。大臣が誰でも死刑を執行させる法務官僚の意向に沿った」と批判した。

 死刑執行に関して、私は今まで触れてこなかった。その理由に、難しい問題を含んでいる点と、とかく賛否を問われやすいのでどちらに自分が付くかという観点になりやすく、視点が絞りにくいと感じていたからだ。因みに、個人的には、死刑には反対の意見を持っている。
 しかし、今回は、千葉法相が死刑執行に踏み切ったことに対して、反対派が批判している点に私の合点がいかない。批判の理由は、千葉氏が「死刑廃止を推進する議員連盟」のメンバーだったことにあるようだ。つまり、死刑を否定する考えを持つ法相が執行にあたったという点が批判されるべきことか?という疑問や複雑な思いが残るので、少し考えてみた。
 率直に言うと、個人的に千葉法相が死刑執行反対者であるのなら、この政権での法相は辞するべきだと思う。職務として遂行することとは別問題とするのは矛盾が生じるため、それが批判の対象になっているのだと思う。また、反対者ではないのなら、そのような説明をすればよいことで、宙に浮かせておくのも如何と思う。が、何ら語られることもなく、私自身はその真意を知る由もないが、何か中途半端な状態であることに奇異を感じるのと、死刑反対派が法相をこの件で吊るし上げるのは筋が違うのではないかとも思う。言い換えると、法相の言動に筋が通っていれば無駄に騒ぎが起こることでもないように思っている。では、矛盾点は何か?
 冷泉彰彦氏の見解を読んで、千葉法相の死刑執行の本質は、管内閣の判断によるものではないかとしているのが興味深かった(参照)。

千葉法相は法務当局の圧力に屈して執行したのではなく、黒幕は官邸だと見るのが自然で、だとすればその動機は極めて政治的なものだと思います。政権が弱体化した際に、本来その政権が持っているイデオロギーに反しても反対派の要求を入れて一種の「変節」を遂げ、政治的失点を回避するというのは、多くの例があります。似たような例では、ノーベル平和賞授賞という自国の右派が忌み嫌う政治的「失点」を「埋める」ためにアフガンでの増派に走ったオバマなどと同じ、バランス感覚というよりもパワーポリティクスの打算というべきでしょう。

この推測が正しいかどうかは分らないが、千葉法相の死刑執行立会いの後の会見でも思ったが、顔面蒼白であった。あの状態からすると、

元来が反対論者であった法相が執行したという時点で論者としては変節を非難されても仕方がないのは事実です。ですが、あの蒼白な表情の重みに対しては、私は無視はできないように思ったのです。

 と、言われることに異論はないし、黒幕が官邸だと見るのが自然だと言うことにも納得がいく。ただし、千葉法相の心中では矛盾があったのだろうと思う。
 冷泉氏のコラムには、アメリカの死刑廃止への道のりが書かれている。それを読んで少し驚いたのに、コストの問題が結局判断の元になったと言うのだ。

アメリカの場合でも、保守派、特に共和党の支持者の中には死刑存置派も多いのですが、ニュージャージーの場合はこの「死刑はコスト高」というロジックで、最終的に死刑廃止という意志決定に至ったわけです。背景として、ニュージャージーのリベラルな風土の影響は勿論あると思いますが、リーガルシステムの精度を高めていった結果として「死刑という取り返しのつかない制度を維持するコスト」に耐えられなくなったという流れは興味深いと思います。

 死刑廃止への道のりは長かったのも、「取り返しのつかない制度」という結論は、尊重されるべきことだと思った。それにしても死刑は合法であったにもかかわらず44年間も執行されなかったことへの扱いは、人の命を法で裁いた挙句、命を絶つことへの疑問として、真摯な態度ではないかと感じた。
 また、もう一つ宙に浮いた問題として、オバマ氏の選挙公約に挙げられているグアンタナモ収容所の廃止の件に触れている。この件は、オバマ氏の公約不履行問題になる恐れを含んでいるため、かなり慎重に扱われているとは思う。が、実際に解決するには難しい問題が山積している(参照)。冷泉氏は、アメリカのこれらの問題が直接日本には関係ないにせよ、死刑存続国であるアメリカと日本が先進産業国である点でも問題提起されているようだ。
 話を死刑反対派運動に戻すと、千葉法相の死刑執行を批判することは、その反対運動の本質ではないのは明白だ。千葉法相の内面の矛盾はあるにせよ、そこを叩いても死刑廃止のための運動にはなり得ない。何故なら、今回の執行は管内閣の判断と言えるからだ。大よそ、筋違いではないかと思う。
 また、批判の矛先が千葉法相に向いたのは、彼女の内面と職務遂行にある矛盾に対してなので、先にも述べたが、死刑執行反対者であるのなら法相を辞すべきだと思う。無駄な騒ぎの元になるだけだ。
 日本の政治が抱える問題は、こういう矛盾を抱えながら職務として政治を行うインチキが横行しているからではないのかと思う。何故、そこまでして法相という地位にしがみつくのだろうか。千葉法相だけの問題ではないのだが、公約とその不履行の裏にある事情は、あまり大したことではなさそうだ。

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