「愛」を感じるということ
何かで気持が沈むような時、その原因は、自分の物事への思い方だと解っている。だから、もう辿らない。全て「思い」に振り回されているだけなのだが、これをだからと言って考えなくてもよいということではない。
他に求めたことが、自分の欲したものと違うものが返ってきた時の落胆に「愛」ということが絡んで、厄介なことがある。いろいろな愛がある。人を愛するということは、私にはまだ解っていないことかもしれない。よくわからない。例えば子どもに対する母の愛も。いつかここで語ったことに、私の生い立ちがある。寂しい思いの塊を持って、じっと我慢して、そのようなものは持っていないかに振舞うのが精一杯だったなんて誰も知る良しもない私だった。そこから卑屈にならずに何とかこの歳まで生きてこられた支えは「愛」ではないかと思う。私が、私でいられるという自由な思いの中に、ほんの小さな光のようなものを感じる時に、それが「愛」ではなかったのかと思う。
「ある種の愛情は成熟して憎しみに変わる。」というのを聞いた。「愛」とは異なる「情感」のことだと思った。男と女の関係面で起こる情感の交錯から生まれる正負の力のようなものが反発し合う時、物凄いエネルギーが生じる。私は、このエネルギーを感じると怖くなる。戦えないと知っているからだと思う。そういうことで争い、相手を憎しむことで傷つきたくないからだ。そうだ。憎しむことで救われると、勘違いしている人が最近多いのじゃないかと思う。逆だ。憎しみを持つ自分自身が、本当はぼろぼろに傷ついてしまうことなのだ。
目に涙を溜めて歩くような時、道端に咲いている花が癒してくれるのは何故って、どんなに小さくても、何かの役にも立つわけでもないのに、毎年ちゃんと芽を出して花を咲かせて生きている。悲しい時には、そういう花の姿に心打たれる。せっせと餌を運んでいる蟻は、明日の洪水を心配して働かないわけじゃない。言い訳もしない。何も考えずに食べて、増やして死んでゆく。そういう繰り返しを文句も言わずにやってける蟻は偉いな。とか。小さなものに慰められる時、そこには「愛」がある。
弱い自分だから戦えないのではない。殺伐とした心の部分に飛び込んで、自分自身とわざわざ戦った結果、その傷から憎しみが湧いてくるのは知っているからだ。これを抱えて生きているような人に、私は攻撃を受けたこともあった。受け止めるのに時間もかかったが、このような時、人は癒されたいのだと思う。傷つきすぎて外に吐き出したいだけなのだと思う。少し後悔の念が残っている。充分受け止めることができなかった。そのときの私が、実はとても傷を負っていたからだった。
今の私は、充分待ってきた。この先も、いくらでもこのままでいられると思う。でも、かざす手の向こうに今までとは違うものを感じる今、それに触れてみたいと思っている。
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コメント
ああ、そうだったのか。と、読み終わって思いました。
私が、つい去年、もがいていた事柄と、最後の8行の部分が
自分の中でリンクされてしまいました。
ほっとした、というか、頭の中がはっきりしたという思いです。
本当にブログをきちんと読み取れているか自信はあまりないのですが、
最後まで読んで、また冒頭を読み返し、何度か読み、
早朝だというのに泣いてしまいました。
苦しくて、時間と距離を置く以外、解決の術がないとき、
四季や草花、そして成長してゆく子供が、
確実に時間を刻んでいることを気づかせてくれる、そんな存在だと気づきました。
投稿: @turtlestudio | 2010-07-02 10:58
turtlestudio さん、早朝だというのに泣かしてごめん。私たちには五感というものが備わっていてよかったと思っています。花や蟻に例えていますが、とてつもなく大きな問題を抱えていても、見ようとして見れば自分の足元にそのヒントがあったりするものだと思うことがあります。だれでも何かしら抱えているものですね。
投稿: ゴッドマー | 2010-07-02 13:03