極東ブログ「[書評]感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎)」について
この書評(参照)を読んで直ぐに昨日の私の書いた実体験のエントリーが思い浮かんだ(「医者の仕事」(参照)」。脊柱管狭窄症の治療経験から、市民生活に医療がどうあって欲しいかという部分にまで触れたが、医療従事者へのお勧めをも含めているというのは嬉しかった。しかしながら、その道は険しそうだと思っていただけに、どのような先駆けがあるというのかなんとなくうずうずしてくる。早速注文してみた。
さて、その下りの部分だが、こう評している。
さらには日本のマスコミにおける感染症を含め、各種疾患に対する報道といったものとの対比のなかで、違和感をもって浮き立ってくる。そこが本書の結果的な面白さでもあり、現代医学がより臨床面において市民社会に語りかける必要があることも示している。
臨床医は率直に医療の事実を語り、市民に選択を委ねましょうという表明に、医療と市民関係への新しいあり方がよく示されている。本書の真価は、池田清彦的な構造主義生物学的な医学の見直しというより、臨床医の新しい市民社会への語りかけの態度にある。
この臨床医の市民社会への語りかけとは、どのようなことなのだろう?昨日書いた私の例で言うところの、治療方針やその最終目的を患者に知らせるということにも該当すると思う。その点では日本は非常に遅れている。この遅れは、何故か?そういう疑問を長く持っているが、診療報酬には数々の制約があるためだろうか?医者は、患者の症状を聞き、その症状を緩和するための薬を処方する。自己負担の少ない保険対象者には山のように薬を出すのは、暗黙の了解だ。
このように、開業医は、医院の経営と患者の確保に頭を悩まされ、体を疲労させている。その医者に、「独占市場志向」などの非難はしたくはないが、現実はそれによるためか、単に文化に対する保守体質だからなのか、そこは何が弊害となっているのか分らないにせよ問題はあると思う。
特に反目しているとは思えないないし実態もよく知らないが、臨床医の立場から代替医療を施す医者を紹介するということは今まではあり得ないという認識しかなかった。市民は、人の噂や薦めを頼りに自分の足で探すしかないのだ。
文末に、このように書かれている。
と同時に、栄養維持が可能になり高度な医療が可能になった豊かで長寿の日本社会では、医療は、前近代的な致死性の疾病に対する国民厚生よりも、個人がよりよく生きる限界を補助するようなビジョンが求められる対象になってきている。
そうした未来の医療の感覚を内面化していく著者のような新しい医師も増えてくるのだろうし、臨床を通して市民社会側から対話していく必要性の場も増えてくる。本書はその先駆けのようにも見える。
この「個人がよりよく生きる限界を補助する」という下りが、なんとも気持ちを軽くさせる。生きる自由を感じる言葉だ。人が死ぬとそれは寿命だと言われるが、医療の躍進のお陰で簡単には死ねなくなった、と嘆くお年寄りがいる。たくさんの管を取り付けたまま、静かに寝ているだけの義母の闘病生活が思い出されて涙が出た。
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