2010-06-10

極東ブログ「トルコの対イスラエル政策は変わったのか」 について

 このエントリーに触れて、最初は複雑な経緯を辿るという印象を持ったため、文脈が読めずに非常に難しいと感じた(参照)。二度ほど読んでみてそう感じたので、このような時に私がよく使う手で図式化してみた。地図上の該当国をフローチャートのように並べて国名を入れ、文章に沿って付記されたことをメモ的に書き添えながら埋めてゆく方法です。これでやっと、取り上げられているトルコとイスラエルの問題に焦点が絞られた。そして、核を保有するイスラエルを擁護するかのようにトルコが両国間で平和的に解決しようとしていることに対して、アメリカを中心に好ましく見ていないという内容だとわかってきたのです。それにしても、歴史的背景の知識に疎い私にとってはこの文脈を読むのは簡単ではなかったのです。結局、最後に結論している以下の部分から、戻るようにいろいろと調べてみました。

変化の兆候は、ケマル主義の共和人民党の変化だ。同記事ではこれを新ケマル主義としている。ただし、現実は、この記事の期待的な論調とは異なり、ガザ支援船攻撃について強行な反発もしている。そして興味深いことに、エルドアン氏の親イラン政策も国内政治向けのポーズである可能性もある。

私は事態は反米・反欧米的な排除スタンスによるナショナリズム高揚の過渡期的な現象ではないかと思う。もちろん、それが西洋型民主主義に近い安定を得るかというと難しいだろう。なにしろ、トルコより民主化していたはずの日本においてもいまだ反米・反欧米的な排除スタンスによるナショナリズムが高揚しているからだ。

 ところが、これだけではイランへの制裁問題に何を結びつけるかがみえてきません。「ナショナリズム高揚の過渡期」と「日本においても」の下りが並列されて論じられていることが結びつかないため、文脈が読めないネックになっているのだと気づき、慌てて、ナショナリズムの指している前段の「新ケマル主義」から紐解いてみた。

1924年、ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。

ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政変なく政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。(Wikipedia)

 これは極一部の抜粋に過ぎませんが、ケマル主義とは、第一次大戦後に生まれた脱イスラム国家の動きだったのです。日本では226事件に見られるとおり、天皇万歳の時代で、皇道派による国家権力唯一という時代でした(参照)。これでLoopy鳩山に触れて示唆していることがやっと見えてきました。
 つまり、日本の団塊世代の政治に後戻り化傾向があることにやっと気づき始めた私達国民が、もっとも警戒しているというか恐れているのは、国家権力による統治や、国営化傾向による最終的な国家の破綻です。論より証拠に、現政権が国営化に向かって法案を決議しようとしている流れに、染み付いた(親世代の)昔の国家主義がじわじわと表れてきたのではないでしょうか。ここで二代に渡って民主党党首である鳩山、菅両氏は団塊世代であり、この世代が乗り越えてこなかった親の世代、又は10~15年上の世代に対する反発は、凍結状態のまま和解することの無い問題として残っているのです。その証拠に、亀井さんは放置状態です。小沢さんに関しては、絶縁状態を作りました。このように政治の舞台にも顕現されはじめているというのが、どうもトルコの政治にも同じように言えるのではないか、現れているのではないか、というのが今日の極東ブログの大きな視点ではないかと思います。
 時代の輪廻なのだろうか。これは、人為的な力ではどうすることもできない非常に大きなエネルギーをそこはかとなく感じる問題なのだと思いました。

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