「ダルフール危機は終わったのか? 」この悲劇について
「finalventの日記」でクリップされていたダルフールに関する記事が気になった(参照)。
➠「繰り返すダルフールの悲劇 」ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト(参照)
和平も束の間、戦闘の激化で5月の犠牲者は約600人に上ったが、世界はもうあの悲劇を忘れたようだ
人道危機は深刻で、「紛争地域への支援が圧倒的に不足している」と、国連の報告は警告している。国連の推定では03年以降、ダルフール紛争による同地域での死者は30万人に上り、260万人の難民が発生している。犠牲者数が増加した程度では誰も驚かなくなってしまったのかもしれない。
このダルフールの危機に関しては、極東ブログが一番詳しくその様子を長きに渡って伝え続けてきているのではないかと思う。この問題は、本当にニュースで報じられることも少ない。日本が報じない理由に、中国がスーダンに武器供与していることに配慮しているのではないかということらしい(極東ブログ「ダルフール危機は終わったのか?(参照)」)今回私が気になったのは、何かをきっかけにまたこの騒ぎが起こるのではないかという予想通になってしまったそのきっかけは何か?という疑問と、サッカーのワールドカップが、同じアフリカ大陸である南アフリカ共和国で開催されているという片やお祭り騒ぎの中で起きている悲劇だからだ。これをいうと、世界には矛盾だらけなので一つを取り上げてもどうよ、という矛盾が自分の中に即座に起こる。このところ触れているキルギス問題などを含めて、キリのない話だ。ただ、キルギスとダルフールの騒動は異質だと思う。キルギスが貧困に起因する民族間の争いが元になっているのとは違い、ダルフールは明らかにジェノサイドだ。そして、ジェノサイド条約によってこのような国民・人種・民族・宗教上の集団を殺害し迫害することは守られるべきなのだ。それが、公然と未だに行われているというのは、世界に起こる悲劇なのだという認識に立つと、関心がないでは済ませたくない。サッカーでボールを蹴っちゃいけないという問題でもないが、気持のざわめきを感じる。ヘタな正義感なども持ち込みたくない話だ。
今年2月に一旦平和に向けた枠組みが組まれ、停戦が期待されていただけに、むしろ激化しているというのは不本意な状況だ。だが、このような状況を予言するかのような示唆が既に極東ブログ「ダルフール危機は終わったのか?」(参照)にはあった。
ワシントン・ポスト紙は25日付社説「Sudan truce offers some hope for peaceful change」(参照)で、まさにそこを問いかけている。
バシル大統領は、このままおとなしくしているのだろうか。どうもそうではないようだ。
The potential for violence in all this is enormous. Fighting along tribal lines is growing in the south, along with accusations that the fighting is being fueled by Mr. Bashir's government.
全体として暴力の潜在性はかなり大きい。南部では部族間の戦闘は拡大しており、その戦闘をバシル政権が焚きつけていると非難されている。 ワシントンポスト(参照)
南部独立を阻止するために、バシル大統領は、また酸鼻な戦闘に持ち込もうとしているのかもしれない。こうした挑発がダルフールに及ぶ可能性もある。
米国オバマ政権は現状、当面のスーダン大統領選挙が民主的に実施されることを期待しているようだし、バシル大統領の再選を阻止することが好ましいわけもない。米国としてはバシル政権を安定させ、とりあえず南部の独立という道筋を付けたいのだろう。
ダルフール危機は終了したのか? こうした文脈で考えてみると、まだそのようには到底思えないのではないか。
今回の騒動がバジル前大統領の挑発から起こったことかどうかは定かでない。
ダルフールが抱える問題は、今の日本では考えられないことだが、一権力者の力で国民を殺害するというようなことは、日本の天皇心性時代にはあったことだ。そう遠い昔の話でもない。救済がまず第一の問題だが、この問題を取り上げようとすると、歴史の深層部分に触れることになり、思いがけないことを知ることになる。
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