「文は人なり」
「文は人なり(ビュフォン)」この言葉を先日のTwitterで見かけ、この言葉というよりもこの言葉から色々なことを考えていた。
まず出てくるのは、思いが上手く出せない為、伝えたい相手に手紙が書けないことが歯痒さとしてあるのだなあということ。「言葉にならない思いは、意思のない言葉」という一言に、発する自由を奪われてしまってるような状態だ。急ぐことでもない、と言い訳を作りながら随分間を置いてしまった。と言うか、昨年末のある時、年末までには書こうと思いつつ、延ばし延ばしにした結果、別のことが年明けに飛び込んできて書けなくなってしまったのだった。書く必要がなくなってしまったのだと、あの時はそう思っていた。結局、手紙をしたためると言う私の意味は、相手に自分を知ってもらうということだった。ところが、知る必然が相手になくなれば、それで終りなのだと悟ったのだった。相手が深刻な状態なのだと知らせてきた時は、そこに絶縁のメッセージを付けているのだろうと察した。いや、本当のところはわからないが、そう思ったほうが気が楽だった。そして、気持を切りかえ、何に対しても冷静沈着な自分でいようと心に決めたのだった。
ある時「嫌悪の対象は自己防衛せずにはいられないような自分自身の内面にあることに向き合えていないと、代わりに相手をそこから排除することで救われたいと必死になるのかも。」と言う言葉を残したことがある。嫌悪とは違うが、ある意味、相手を自分の中から消さずはにいらないような苦しさがどっと寄せてきて、その思いを打ち消したくなるもので、考えまいとする。そんな感じで、気を引き締めたことがあった。結局、その方がキツイのだ。どこかへ逃げていなくなりたいとさえ思った。そして、そのキツサというのは表面を繕う自分でしか救えない。その惨めさときたらなかった。そこで、もう一度何から逃げようとしているのか、逃げなくても良い方法ってないものか、随分悩んだ。
ここで私は一つの結論に達した。相手を見るのではなく、自分がどうしたいか、それだけでいいじゃなの。と、開き直りとも思われるが、そうではなく、自分の純度の問題なのだと気づいた。相手がどう思うか、周囲がどう見るかではなく、「自分がどうしたいか」だけの世界で生きようと、この時、硬く心に決めた。この世界観には、人に対して恨み、辛み、憎悪、嫌悪といったものは一切ない。それが出てくるとしたら、それは私の思い方が足りないだけなのだと、半ば何かの修行のようだった。でも、その必要が私にはあった。
おそらく、その時相手は、私を気遣ったのだと思う。それと言うのも人には言えない深刻な問題を抱えていたからだ。その問題が深刻なだけに、人を巻き込みたくないという気持が働いたのではないかと思う。温かい心持ちの人物というのはそういうものだ。必ず自分からそっと身を引く。しかも、その問題を抱えてこれから生きてい行くのだ。悩みを持つというのは生きていてこその贅沢な悩みであり、私は、自分の都合に酔いしれていた私自身を恥じた。
このことに気づいた私は、もう自分自身の都合や悩みなどに振り返ることもなくなり、ひたすら、私にできることで支えになろうとしてきた。その思いへの見返りや労いのような関係の一切ないところで、これは私が心に決めたこととして。
そして今、変化があった。これに飛び上がって喜んでもいいものなのか、と、迷うでもなく。相手がたとえどのようでも、私は変わらないのだということが伝わったのだろうか。今という、生きているこの瞬間を大切に思いたい。その小さな一つ一つが繋がって、半年後にはクリスマス、いや、その前に私の誕生日がきてしまうぅぅ。
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