2010-04-05

「ゲゲゲの女房」を見て、とんでもない事が露呈したものです

 NHK朝の連ドラ、「ゲゲゲの女房」は予想していたとおりのドラマで、私の父母の世代にスポットを当てた展開です。第二次大戦の前後を生きた世代の日常からストリーが始まっていて、私の母が昔話していた事を画像を用いてはいるものの、さらに詳しく説明をされているような錯覚を起こします。
 食べるのに困らない農家への縁談を目論む父親は、その事が何をおいても娘の幸せだと信じている事など、どうでしょう。私にはそれが体験としてはないにしても、さもありなん事だったとしてすっと入ってきます。また、縁談は親が決める事だと言われて育ったわけではないにしろ、結婚したいと思った相手について、親の是非を言うというのはありました。これは、今の親の同じ世代でも、結婚に口出しするというのは日本では多少あると思います。欧米でそれがないのは、人は神の子であって、親の所有物ではないとはっきりしているからかもしれません。
 大昔のことになってしまいましたが、私の母の大反対で、私は自分の決めた相手を否定された挙句、結局その人とは結婚できませんでした。ですから、ドラマの話はまんざら分からないでもないです。そして、このドラマを見始めて気付かされることが現実にこれもそうか、と思い当たることが最近ありました。羞恥心をさておいて、それが現実なのだという思いを少し書いておこうと思います。
 それは、食べ物に関してです。ここを長く読まれている方にはお見通しだと思いますが、食に対する私のスタンスは、もはや時代遅れと言いますか、同世代の方が懐かしさに触れるようなものがあると思います。食に対する思いや、食の由来、自然との調和、季節感など全てが、昔の背景に照らしながら、結局それを求める現在の私の事として書いています。 振り返ってみると、では、「食」に窮したかと言われると、戦後のようにお腹がすいてたまらないというような切なさは記憶にはありません。また、そういう経験をしたというのもないと思います。が、母から、そういう時代が私が生まれる少し前にあったのだということを子どもの頃に聞いていますから、「ゲゲゲの女房」で登場する話は、そう驚くほど遠い話でもないという感触はあります。何ともリアルに浮き彫りになるのが、昔、母から聞いた話がまるで自分が実際体験したのではないか、と疑うような感覚が、錯覚なのか現実のなのかよく分からない感じに奇妙に起こります。これが不思議で、錯覚というよりは、実際に疑似体験をしているのかもしれません。上手く言えないのですが、遠い記憶の中の聞いて知った話と、もしかしたら思い出せないほど薄い体験がダブっているのかもしれません。
 私の子達が都内に住むようになって、私は良くこちらの「田舎」の食べ物を送ります。彼らが幼い頃喜んでいたお菓子や、果物、季節の野山の食べ物。そういうものを食べたいとリクエストでも来れば、どんなことをしてでも探し出して食べさせようと奔走します。そういうことに対する根性はかなりありますが、この元には何があるかといったら、あのゲゲゲの女房に出てくる父親の娘に対する愛情のようなものです。私の場合、事は縁談ではありませんが、「食べ物の事で困らせたくない」というか、そういうものを満たそうとする気持ちです。そして、がっかりするのは、母が私にすることとそっくりな私なのです。ここが、「気づかぬ間に染み付いた時代」で、これをを引きずるということ以外の何物でもないということにがっかりなのです。これが昭和なのだと思うと、今の時代からどれほど遠い昔に私は生まれたのかと思います。
 実家に娘や息子達を連れて行くと、「そんなものは家にもある」というようなものでも母は、彼らに山のように用意して持たせたりします。持って行け、持って行かないの押し問答の末、結局持って行くことになると決まって「あっても邪魔じゃないのだし、あれば食べたいときに食べられるでしょ」というオチが付くのです。これは完璧に母の、「食べたいものが食べられなかった」という時代感覚から起きていることです。今の世代は、何時でも何処でも、好きなものを好きなだけ手に入れられるのです。ですが、あえて言うなら、どこにでもあるようなものをわざわざ買って用意して待っている母を見るのは、そうですね、私にとてっては不憫な思いかもしれません。報われない事とでも感じるのか。些細なことなのですが、それらのやりとりに何だかちぐはぐな時代の格差が暗黙の中で見てくるのです。これと同じことを私も自身の子ども達にしているのはどうよと思えてくるのです。
 あっという間に年老いてしまった母でも、性分というか気質のようなものはそのままで、それが私を育てる時代では確かに生活で役立ったことでしたが、今起こる同じようなシーンではもう誰も必要としない事になってしまったようです。暮らしは変わってしまったのです。
 自分の人生なので、生きたいように生きたらよいのですが、この時代の移り変わりに何が一番かと聞かれたら、それは老いの寂しさをどう抱えるか、受け止めて生きるとはどういう生き方をしたらよいのか。結局、生きるとは何か、と考えさせられます。

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