野萱草の酢味噌和え:癌の手術を受けた友人と話してみて
朝から夕方まで日の当る、暖かい畑の土手にはオオイヌノフグリや野萱草が生えて、今年の春の訪れはやはり例年よりも早いと思います。東京ではもう桜も咲いているのだそうですね。上着を一枚脱いで、寒くて丸めていた背中を伸ばしてみると明るい気持ちになれます。
さて、今日は野萱草の酢味噌和えにしました。身近に春を感じるのが、こういった新芽の部分です。先日も話ましたが、野萱草の根本の少し白くなった部分に甘みを強く感じ、茹でるとその部分がやや粘るような感じになります。また、葉の先端の方は、シャキシャキした食感で、このバランスは他の野菜などには見つからないかもしれません。そして、今日のレシピは、この野萱草そのものを引き立たせるために考えた分量です。
酢味噌和えの味付けに、今までは少し砂糖を加えて甘くしていました。これが間違えのもとだったのか、酢味噌の甘みは砂糖だと思い込んでいただけだったことに気づきました。野萱草を茹でてそのまま食べてみると、砂糖甘さではない優しい甘味を後で感るのです。その繊細な甘さを味付けによって相殺してしまうのは、春にせっかくのびた新芽を摘みとって食べる資格がないとも思いました。
味醂を煮てアルコールを完全に飛ばし、更に煮詰めて、とろみがついたら信州味噌を加えてのばします。味噌を長く煮ると風味も飛んでしまうので、再沸騰する直前で酢を加え、もう一度温度を上げてからそのまま冷まします。冷めながら、酢がまろやかになります。
この味醂の分量では甘いと言うほどの味付けではなく、味噌と酢が少しまろやかになる程度なので、野萱草の甘さが引き立ちます。これから出回る独活(ウド)と一緒に、烏賊の酢味噌和えや、スティックの野菜などにも良いのではないかと、多めに作りました。
酢味噌の分量
- 味醂・・カップ1/2
- 信州味噌・・大さじ2
- 酢・・大さじ2
- 野萱草・・50g
作り方
- 小鍋で味醂を中火で煮切り、半分の量になるまで蒸発させる。
- 弱火で加熱しながら味噌を練り合わせ、煮立ってきたら酢を加え、再び煮立ってきたら歩を止めて冷ます。
- 70度のお湯に2%の塩を溶かし、野萱草の葉全体が緑色に変わるまで茹でて水にとる。(Hint&Skill☛)
- 野萱草を両手にとって包むように軽く握って水気を切り、3の味噌大さじ1.5~2で和える♪
***
環境の変化などで戸惑う中、自分自身の問題など抱えていることをTwitterで少しこぼしてご心配をかけ、往生際の悪い性分に些かうんざりしています。
友人に、贅沢な悩みなのだと言われて、確かにそうなのです。何かを成し遂げようとするあまり、自分自身の力不足を問うというのはいつもついてまわることで、それを抱えている時は嫌なものです。言わなくてもいいようなことを軽くつぶやく回路は、ともするとそれで気が静まると錯覚もします。昨日は、癌の手術をうけた友人と話し込むうちに、彼女に教えられました。仮に悩んで自分自身の納得の行く答えを出したからと言って、それで解決するわけではないのだし、中途半端な終わり方もありだわと思えたのです。こんな風に、捉え方が変りました。
ここでは毎日、色々なことを取り上げて話していますが、私自身の中では全く納得のいかない事だらけで、もう少し学問というかが身に付いていて、思考がスッキリできたらなあと思っています。そして、書くのに時間ばかりがやたらにかかって、それでも納得が得られないのは、能力不足だと痛感するのです。その非生産的とも言える時間の無駄使いが気になったり、このようなことをしている事自体の無意味さにうんざりしてくるのです。こんなことをこれから先何年続けるつもりなのかと、嫌気がさすのです。先のことは一切決めずに、ここで一旦止めてみようかと思ったのが事の真相です。もうひとつ決定づけることがあるのですが、それは私自身の問題だけではないので、今は触れずに置いておくことにします。
「一生懸命仕事をして忙しい日々にかまけ、本当にしたいこと、私でなければできない何かが何なのかということに向き合えずに放置してきたツケが今、回ってきている。」と彼女は言います。癌の手術を受け、先細りの人生を迎えて、「私は何がしたいのか」と問わずにはいられなくなると話します。彼女は私に、「自分の感性で料理し、それを通して自分を表現し、必要とする人に届けている。それは、あなたしかできないことをしているでしょう。」と言うのです。
確かに、自分が死ぬことやその恐怖を知る人間から見たら、生ある者の阿呆らしさと愚かさだろうと思います。彼女は、癌の手術を受け、再発の恐怖がどのような恐怖かを知っています。私は、それをまだ知らない。その彼女が、「私は何がしたいのか」と、生き方に向き合う自問自答の毎日だというのです。それが今の悩みだと言うのです。何だか恥ずかしさを覚えました。
結果がどうであれ、取り組む自分に満足したらよろしいのとちがうか。一旦そこで手打ちとしても良いのじゃないか。そのように受け止めて前に進めばよろしいのではないかと教えられたような気持ちです。仮に答えを出したからといって、それが生きるか死ぬかを問われるほどの重さもないことです。
生きている人間が、死ぬ気になるなどといい加減な事は言うものではないと思いました。いつかそのようなことに触れて書きましたが、それは言葉をもてあそんだだけのようなことだと反省しました。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント