2010-02-25

ノンドレッシングのグリーンサラダ:スイートチリ&梅干の漬け焼きの鶏ハムの応用:もう書けなくなると思った

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 一昨日の鶏胸肉のつけ焼きでできたハム(レシピ☛)の料理例として、お約束のサラダの紹介です。差し当たって、色目からもグリーンサラダとします。
 胸ハムの味付けは、タイ産のスイートチリソースと梅肉だけですが、ソースの甘さとピリっとしたところに、梅の香りと酸味、塩分が一緒になるとこうも変わるのかと、自分でびっくりした味付けです。味見をすると分かりますが、胸肉の表面にはかなりなインパクトを持つ味付けとなっていますので、サラダ自体にあまり余計な味をごちゃごちゃ足さない方がよいという結論です。
 大変シンプルにオリーブオイルだけで野菜を和えて、薄くスライスした胸ハムを混ぜるだけです。但し、ちょっとインパクトがないので、オリーブの酢漬けをそのまま散らします。このオリーブは、まろやかな酸味とオリーブの味がそのまま生きていますので、このサラダにはぴったりです。もし、オリーブの酢漬けがない場合は、ピクルスなどのような酸味の強い漬物が混ざっているとよいと思います。

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 キャベツの葉の下処理は、後で絞っても水が出ない程度の超薄塩で和えて、10分ほど置きます。こうするとキャベツの生の食感が芯に残るので、生野菜のサラダ感が楽しめます。人参とアスパラガスは軽く茹でるので、キャベツの食感との違いが面白いく、野菜をバリバリ食べるという勢いがリズミカルです。そうは言っても、オイルを野菜にまぶすことで食感が柔らかくなって食べやすくなっています。
 食べる直前にオリーブの漬け汁を大さじ1和えます。たったのこれだけなのですが、全体に味付けするドレッシングの感覚とは違って、薄切りのハムを一緒に食べるというだけで充分満足できるのです。ドレッシングいらずのサラダという訳です。

材料

  • キャベツの葉・・3枚
  • アスパラガス・・5本
  • 人参・・70g
  • オリーブの新漬け・・10粒
  • オリーブオイル・・小さじ1
  • 胸肉ハム・・70g
  • 塩・・小さじ1/2
  • オリーブの漬け汁・・大さじ1(なければワインビネガーなどで代用)

作り方

  1. キャベツの芯を包丁で切り離し、葉はざく切りに、芯は斜めに薄くスライスし、ボールに移して分量の塩で軽く和えて10分ほど置く。
  2. 鍋に500ccの水を取り、5gの塩を加えて人参を茹で始める。
  3. 沸騰したらアスパラガスを加えて同時に茹で上げて冷ます。
  4. 人参とアスパラガスを適当な大きさに切る。
  5. 1のキャベツを軽く絞り、4の人参とアスパラガス、オリーブの実、胸ハムのスライスを加えてオリーブオイルで和える。
  6. 食べる直前にオリーブの漬け汁を和えてでき上がり♪

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 一昨日は、プライベートで問題が起こったことで、とうとうブログの更新を休んでしまった。今までにも何度かこのような危機があって、その度に人に救われている私です。
 私にとって、ブログを更新するというい事には大きな意味があります。これまでもぐずぐずと書いてきたことですが、それは、遺すために書くという目的とは違った部分で、私の内面のバランスを取っている面もあります。そして、料理は、私が最も日常で充実している感性の部分です。
 これについて書いている時の世界観は、例えば畑の野菜であれば、畑の空気や風、気温、虫達それら全てが私の友達になってしまいます。ちょっと現実から離れる部分ですが、そのような充実感をブログに書く時は、心境調整となります。日常にいかなることがあっても、それらをすっかり棚上げしてブログを書くことに集中すると、気分転換になり、書き終わるとすっきりします。ただし、取り掛かる時に、抱えている問題があまりに大きく、それが辛かったり頭が一杯だったリすると、棚上げする作業自体ががひどく苦痛になります。それでも、嫌な事や辛い事を棚上げできると、ブログを書き終わる頃には自然に軽いものに変わり、まるで濁ったスープが澄んだ綺麗なスープになったような感じになるので、とてもよい循環なのです。ブログの更新を毎日行うのは大変な事だという人もいますが、とんでもないことです。どれだけこの書く作業に救われいているかと、話せば裏側はこのようなものです。
 また、社会的なことや政治的なことについての関心事も、ここが学習の場です。ここに思いっきり他所から集めた情報を広げて、読み比べながら勉強する教室にもなっています。
 それなのに、今回のような問題が起こると何に対してもそうですが、自分のこれまでの人生というか生き様の全てを投じて解決しようと力が働きます。が、力も至らない上、所詮生きてきたようにしかできないことなので、身の丈のほどという表現がもっとも似つかわしい言葉で収まるような、嘆かわしい結果に終わるのです。乗り越えなくてはならないものって、一人で生きているわけではないので必ず遭遇します。そういう時にいつもぶつかるのが、無力感です。そしてその原因の一端は、私が親の愛情に確信をもてないで育ったということにつながり、以前にも話したとおりです。
 何度となくこの巨大壁に突き当たってしまうと懲り懲りしますし、そのような痛い思いをしないための防御のような力が働くのでしょうか、棚上げする気力すらなくなります。今回は、もうブログは書けないという心境にまで至りました。もうだめかな、と。ただ、こんな形で休んだことは、結局私の前に進む力とはこの程度だったのかと思い知っただけでした。もうこれ以上前には進めないのだと思ったのです。どこまで行っても何かにもたれかかっている自分なのだと思うと、求めること自体が間違っていたのではないかと思っていました。これは全否定です。どこにも行き場のない、孤独な人間の思考でしかないと思いました。
 こうして今書けるような心境にまで戻ったのは、この心境に似た同じようなことを書いている日記に遭遇して、その文章に問題を解く鍵が見つかったからです。
 孤独が怖いという心は、周囲の全てを強ばらせてしまうようです。だから、私自身が恐ろしい人間として他の人には映ているのかもしれません。人は、私の鏡のようものです。私が恐怖心を持っているうちは、相手を怖がらせてしまうのだということが見て取れました。自ら人に解けて行くことをせずに、ガードをかためて自分の殻に閉じこもっていたのでは、対話も満足にできなくなるのです。怖がりは人を怖がらせるのだということです。自分にある何が原因かが分かりました。
 遭遇した日記で、「他者に自分の心なんか通じることはないという前提で生きてきた」という部分に触れたとき、幼い頃に既に生き方を身につけてしまった哀れな自分なのだと思い知りました。これが全てのバランスの元になっているのです。卑屈になったり、歪んだ部分を真っ直ぐにするために何かをしないといられないというのが、料理であったり里山歩きだったり、読書や書くということに繋がっているのです。ただ、哀れな自分だとしても、それは決して特別でもなく、現にその日記を書いた人物も私と同じような人生を辿って来たようです。私一人だけではないのです。なんだ、他にも似ている人がいると思った時に、一人で悲劇のヒロインでもないだろと何だか元気が戻ってきたのです。
 中断していた問題解決に立ち向かうどころか、もっと低いところから「こんな私でもいいだろうか」という気持ちになった時、今までどれほど頑なに高い所にいたのかと感じました。同時に申し訳ない気持ちになりました。問題を解決するにはまだ至っていませんが、周囲の空気が変わったのは感じます。良い方向へ確実に向かっていると思います。

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