2010-01-03

世代間格差が身に染みたお正月

 久しぶりに自分が育ったところに帰るのは、それはそれで幾つになっても楽しみなものです。だからといって特別な事があるわけでもないのですが、それは、懐かしさに触れる楽しみな時間ともいえます。変わりゆく町の姿に、なかなか見つけにくくなった昔ながらよさというものが残っていて、些細なことでも見つけるとホッとするような、それには癒されます。
 近年は、田舎の諏訪でもお正月から店を開けているところも多く、日本という国は忙しい国だと感じていましたが、実家の周囲には大型のスーパーマーケットやチェーン店、量販店などが建ち並び、買い物には事欠かない便利なところです。どうしてこうも休まない国になったのかと、これだけは昔のお正月とは違うとこだと思うのですよ。そして、その人出の多いことに驚きます。
 また、買い物客の姿に高齢者の割合が俄然少ないということに驚きました。この光景は一目瞭然で、諏訪ではどこを歩いても、どこに行っても高齢者ばかりで、車のステッカーも大変多いです。この違いは何だろうかと不思議でした。
 そして、年齢格差によるデフレ現象の実態は実家にもあって、それを垣間見た時、下手な抵抗をするでもなく、その実体験を穏やかに第三者的に客観視していました。昨年の暮に少し触れた「世代間格差で見えたしょうもない餅代の行く末 」が正にこういう事かと、実体験したお話です。それが私には新鮮に映ったので、少し書いておきます。
 私の姪っ子はまだ社会人ではなく、お正月にはきっとお年玉も楽しみにしているのでしょう。私が諏訪から来ると聞くと、夕方の薄暗くなるころ訪れました。早速、母が姪っ子にお年玉を渡しています。ここで、この件で一考しておくべきだったと後悔しても始まらないのですが、高校生とも大学生ともなる子ども達ですから、今の社会を肌で感じて欲しいという私の気持もあって、お年玉のない年があってもよいのじゃないかと考えていたのは事実です。意地悪ではないのですが、そういう経済なのだということを暢気にやり過ごせないということをです。
 我が子でいうと、高三の息子は、友達が、親の経済的な都合により進学を諦めて就職に変更した子や、逆に、就職に失敗して専門学校に変更した同級生が沢山いるので、それなりに厳しさを理解しています。また、長男は、大学生があまりお金を持っていないことや、アルバイト先での人の出入りの少なさなどで、世間を間近に感じ取っている様子でした。「今年はお年玉はないかも」と、ひとこと言えば、それは何を意味するか期待した通りのことを察していました。
 このような話があったことを母にも話していませんし、母は母で、私とは別でよいのですが、大変分厚いお年玉袋を用意していました。おー、これが格差かということを思い知らされました。依然、ささやかな金額のレベルの話ですが、支出に対する感覚が全く違うのには驚きました。母の世代は、大変物を大切にします。物を粗末に扱わず、綺麗なものや使い回しの出来そうなものだと直感すると、それは山のように既にストックしている場所に、さらに新しく積み上げます。物に対する考え方には一貫性があって、一生懸命働いて稼いて買ったものに愛情があるのです。物には命があるといった扱い方なのです。それとは裏腹に、出す時はケチらないのです。その辺は心の豊かさからだと思いますが、それが共存しているのです。
 お年玉にケチがつくので黙っていましたが、お婆ちゃんと伯母ちゃんのお年玉の格差に、子ども達は何を感じたでしょう。

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