鱧(はも)の海老とほうれん草の手作りなると巻:Get rid of it!
小正月が近づいてきても、昔のように15日が成人式ではなくなってしまったので、「平日のお休みの日」というのが何とも懐かしいです。そうは言っても何かをするわけではありませんが、正月気分を抜くための良い間のようなものを感じます。
その「間」に、なんとなく気分転換のために蒲鉾を作りたくなったのです。昨年末、鱈(たら)で縮まないはんぺんを作って筋トレしたばかりでしたが(レシピ☛) 、擂り鉢で丁寧に擂った魚のすり身は柔らかく、コシのある食感なので、性懲りも無くまたです。昔、作り方を知らなかった頃の私は、何故蒲鉾やさつま揚げ、竹輪などを「練り物」と呼ぶのか不思議でした。自分で作ってみて、なるほど納得です。
今日は、じっくり時間を掛けて「小さな練り物を一つ」ですから、この事に集中したかったので、出来上がった後の調理のことは考えませんでした。これは、後にしましょう。
今日はちょっと奮発して鱧です。鱧って、鰻のような蛇ですよ(参照☛)。鱧の下ごしらえは魚屋さんにやってもらって、皮からそぎ取った白身の部分だけを包丁で叩いてミンチ状にします。擂り鉢に移して、さらに20分ほど丁寧に擂ります。ここに調味料を順に加えては擂って、ぽたっとした粘りのある生地を作ります。蒲鉾というのは木の板の上にこの生地をへらでのせて、半円状にこんもりと盛り上げますが、板の代わりに巻きすにラップを敷いて生地を丸めるることにしました。ちょうど鳴門巻きのような感じです。中に何もないと寂しいので、色鮮やかな海老と、軽く下茹でしたほうれん草を組み合わせました。蒲鉾に生物を巻くというのはあまり聞きませんが、これも手製の良さです。
さー蒸しに入るよ、と鍋(ウー・ウェンパン)に巻きすを当てたら大変、入らない!あと5mmなのに。今回の巻きすは少しサイズが大きかったので、手持ちの鍋のどの直径にも収まらず、急遽、ホットプレートで蒸すことになりました。これがなかったらどうするか・・・。オーブンの天板に水を張って、アルミホイルで覆えばできるかな。もしもの場合を考えて、この案にブックマークしておくことにします。
普段は特に体裁をあまり意識していないせいか、色合いなどを考えながら料理するのは、着せ替え人形を片手におままごとでもするような楽しさを覚えました。
なると巻き風の海老とほうれん草の蒲鉾、いかがでしょうか。今日はひとまずここまでですが、これをどう調理するか楽しみです。
材料
- 鱧(ハモ)の身・・120g
- 片栗粉・・小さじ2
- 塩・・小さじ1/2
- 砂糖・・小さじ2
- 味醂・・小さじ1
- 剥き海老・・大3尾(8cm)
- ほうれん草・・1本
- 巻きす
- ポリエチレンラップ
作り方
- 海老は殻を背わたを取り除き腹側に半分まで斜めに切り込みを4~5ヶ所入れて丸まらないように中心の筋を切る。
- ほうれん草は熱湯を掛けてしんなりさせ、水分を絞っておく。
- 包丁で叩く。(バーミックス、フードプロセッサーなどを使って、下処理したハモの身をペースト状にする。)
- 1を擂り鉢に移して20分ほど擂り、片栗粉以外の調味料を加えてさらによく擂り、最後に片栗粉を混ぜ合せる。
- 巻きすにポリエチレンラップを敷き、端から厚み7~8mmに2を塗り広げ、海老の頭と尻尾を重ねるようにして厚みが均一になるように並べる。
- ほうれん草を海老に添わせるように置いて端から巻きすで巻き、輪ゴムで止める。
- 蒸気が十分上がっている蒸し器(この場合は大きなホットプレートに皿を置いて)にを6を置いて10分、強火で蒸す。
- 巻きすに蒔いたまま冷ましてでき上がり♪
***
ネットにものすごい強烈な世界観を持っているのだと気づくことがあって、自分自身が恐ろしくなりました。
普段、引き篭っているわけでもないし、こうしてブログを書くということは自称、極普通のオバサン括弧笑なのです。が、ここには自分のもう一つの居場所としての世界があり、なんとなくそのようなことに触れて書いたことが以前あります。「幸せな大馬鹿者」として、私は、社会的には脱落者であるものの、そこに混ざらない私をもって至極幸せ者なのだとも思っています。相手がどのように私を思おうと思うまいと、私の書く世界では、私のためにこれを続けているだけなのです。PCの向こう側にどのような方がいてもよいし、私が選べるものではなく、この壁は永久に超えられない壁で、言わば私はこの壁に都合よく守られていると言えます。
と、理屈ではクリヤーにわかっていましたが、ある特定の物事に対してはどうしようもない感情が押し寄せてきて、一瞬のうちに意識の中にあった壁を取り除いてしまったのです。この特定の感情は、もの凄い力を持っているものだと戸惑いました。冷静でないことは自覚しているのですが、自分の思い込みで作り上げた肖像は、現実の邪魔な人物のように、どうもすっかり思い込んでいたらしいのです。ヴァーチャルな世界の事、という構図とは思えないのです。その邪魔な肖像を取り除くために、私は薄汚く傲慢になれるのでした。そういう自分自信にも驚きでした。
そうなったのも、長い年月を掛けて一途に思い続けるということが、私の傲慢力にさらに強靭なバリヤーを張ったのでしょう。かなり辛い。この辛さは、本来自分が望まない事で、だから、どこかで抵抗しながら自分の中で戦っているようなざわめきでした。考えてみれば、先の幸せも、願う形の何一つも思い通りになることのない世界では、孤独過ぎて見せる涙も必要ない。泣くということは、元々自分の為に涙を流すということなのかと悟ってしまうようなシンプルな世界です。だからか、心の真髄までもがすっきりと見えるようです。見えてしまうと、それと戦って苦しくなるのは嫌なものですが、戦う意味がありません。勝ったところで、その先にあるのは、負けている時に見たあれ。何も変わらない現実しかないのです。
これが「啓示」ということなのでしょうか。きっと私には進む道が生まれる前から敷かれていて、歩いてみて振り返ると、その道が始めて見えるというだけのこと?将来への展望や願望を実現するために戦ったところで、所詮、敷かれた道があって、神様がちゃんと私にいいようにしてくれるのでしょうね。
今は、長い間悪い夢を見ていて魘されて、びっしょり汗をかいて起きてみたら夢でよかった、とホッとして現実に戻ったような感覚かな。
私は、このまま歩いてみようと思っています。「私は私の気持ちに聞いてきた結果が今」は、現実の私の周囲の何かが変化しても、それは変わらないことで、今までずっと密かに孤独の世界に持ち続けてきた答えなのです。
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