牛筋と大根の煮物:子どもの凶悪犯罪の原因となっている親のこと
一週間前、1kgの牛のスジ肉をスロークッカーで薄い味付けで下煮をしました(☛レシピ)。硬い筋の部分ですから一度に多めの量を柔らかく煮ておけば、後は好きな料理のメインの肉として役立たせようという考えでした。今日は、この牛筋と、八ヶ岳農場の畑で掘ってきたばかりだという新鮮な大根が買えましたので、この大根と一緒に、車麩とゆで卵を煮ました。
車麩は、コシがかなりしっかりとしたお麩ですから、じっくり時間を掛けて水で戻します。このお麩が、煮汁を吸い込んでふにゃふにゃしているのをつるりと口に運ぶ時は、至福の喜びです。そのためにも、煮汁はあまり塩辛くせずに優しい味付けにします。
また、卵の黄身は、好みの硬さに茹でたら直ぐに水に放ち、芯まで冷ますことで余熱で火が通るのをストップさせます。今日の卵は、七分茹でにしました。
大根は、包丁を入れるとパリンと皹が入るような瑞々しさでしたので、切り方を途中で変更して「割る」という感じにしました。乱切りの要領で角度を変えながら包丁を浅く入れ、包丁で大根を剥がすような手つきで割り、断面をわざとごつごつさせます。この感じは丁度鉈漬け(なたづけ)のようです(☛参照)。表面積が広くなるので味がしみ込みやすいのと、断面が平らではないので、大変柔らかな食感になります。切った大根は、米のとぎ汁で茹で始め、沸騰してから2~3分茹でます。ここで蓋をしたまま30分ほど放置すると透き通った灰汁のない大根の下茹でが完了です(☛Hint&Skill)。
これで全ての材料の下準備が完了しました。さて、ここからが大変速いスピードで味がよくしみこんだ煮物が出来上がりますので、煮物と言えどもスピード料理です。
水でよく洗った大根を分量の出汁で煮て、大根が熱くなってから筋肉と固まっているコラーゲン、車麩を加え、大根に味がしみ込むまで煮ます。白い大根が直ぐに煮汁の色で染まっていきますので、5~6分です。ここで殻を剥いた茹で卵を加え、味の足らない分として醤油を加えます。煮汁がなくなる位まで煮しめて完成です。全体で、10分から15分です。
今日の大根は、甘味がのっていて新鮮なので大変柔らかく、寒くなってからのこの時期ならではの大根でした。野菜のお値段も安定してきて、なんだか嬉しいですね。温まるお料理がとてもありがたいです。
材料
- 大根・・600g(1/2本)
- 牛スジ(下煮済み)・・300g
- 牛スジの煮汁(コラーゲン)
- 半熟ゆで卵・・6個
- 車麩(くるまふ)・・2個
- 鰹出汁・・200cc
- 醤油・・大さじ1
作り方
- 車麩をたっぷりの水に浸して戻す(約一時間)。
- ゆで卵を好みの硬さに茹でて冷まし、殻を剥く。
- 大根の皮を剥き、乱切りで角度を変えながら包丁を浅く入れては剥がしとるように切る。
- 米の研ぎ汁で3の大根を茹で始め、沸騰後2~3分したら蓋をして30分ほど余熱煮する。
- 戻した車麩は6等分に切る。
- 大根が白く透き通ったら水で洗い流し、鍋で出汁と一緒に火に掛ける。
- 沸騰したら牛筋とコラーゲン、車麩を加える。
- 大根が煮汁を吸って色が変わったらゆで卵を加えて味見をし、醤油を加えて調味してでき上がり♪
【お弁当に】
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聞いて知ると、呆れるほど単純で幼稚な理由から凶悪な未成年の犯罪が多い世の中だと思います。それだけに、これはきっと何処にでも起こり得ることなのだろうと思うので、自分自身に置き換えて考えてみました。
その実、我が家にも高校三年の男子がいます。こういう年頃の子どもが、昔では考えられないような犯罪に手を染め、いえ、もっと低年齢の中学生がです。そして、警察の調べや裁判でハッキリするのは、大半が「むしゃくしゃしたから」という理由です。親子間の揉め事がエスカレートして、親の言葉が気に入らないなどという理由から、というのもちょっとショッキングな理由です。こういう理由を聞くと、それは、我が家で起こる日常の会話の延長上のことと思えてきます。
具体的なことが浮かぶほど印象に残るでもない、日常の親子のやり取りだと親は思っていても、子どもにしたらその表層部分でさえも不満の元というのはあるようです。
例えば、「もういいよ」と、子どもが諦めてしまう時などです。子どもがそう言った時が、親にとっての子どもの心情を知るチャンスです。私がよく失敗する例ですが、「諦めさせている私」だとは直ぐに思わないもので、自分の言いたいことが言えない子どものもどかしさは、次第に「聞いてくれない親」だと諦めさせてしまうのです。これは子どもからそう言われて分かったことです。そして、子どもというのは親に聞く準備を与えてくれません。突然話し出すことが、聞いてもらいたいと欲する真髄の話だったりするのです。
対話のマナーというほどの事でもないのですが、例えば言葉を発信できない赤ん坊は不快感を泣く事で親に知らせ、成長と共に言葉でそれを訴えられるようになります。ですが、対話能力を養う外的要素として、人との関わりが希薄になってきていると言われている今は、困難を極めていると思います。そういう中で、子どもに親が接するのが最小単位の学ぶ場でしかないのかもしれません。
私の世代の親は忙しかったというのもあり、子ども社会が確立されていて、弱いものいじめはしないのが鉄則で、喧嘩は一対一でするものだというルールは、縦割りの子ども社会で上の人達が下に教えていたものです。このルールを破るとつまはじきにされるので、「我慢」も覚えたわけです。そして、そういう子ども社会のルールは、子ども社会の存続の要素でした。が、子どもの数が減って縦割りが崩壊し、子ども達が目指す年上のお姉さんやお兄さんを失い、バランスができなくなったことは大きな原因かもしれません。そのため、大人の介入が多くなったというのも、子どもが大人びた理由でしょう。今では私も麻痺して慣れてしまった嫌いはありますが、子どもの大人に対する言動は、対等です。「分」や「節」なども存在しないので教えようがありません。かく言う私が時代の化石なのか、言い換えると、昔の常識を持ち出すだけ無駄というものです。
時代は本当に変わるのですね。
親子間の絆でさえ、今や親が家にいないことの方が多く、子どもの心の訴えを受け止めてやることも無くなり、やり場の無くなったその気持ちを爆発させる先が親である自分にだったら、それは一番分かりやすいことです。子どもにそうさせているのは自分自身です。諦めさせている自分の原因を早く見つけて、子どもとの絆を修復することが急がれていると思います。
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