2009-11-26

秋刀魚の梅酢煮:老いを展望するのか、老いからの展望なのか。チト切れた。

 十日前に雪が降って、温暖化現象そのものが疑わしく思ったのでしたが、この数日は雨です。気温が低いと、雪になるかどうか雲行きの加減で直ぐにわかるのですが、最近は雨雲です。凍てつくような寒さがこないと野沢菜漬けが美味しく漬からない、と近所のお婆様達の話題はもっぱら漬物のことばかりなのも、この土地ならではの季節感です。

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 今日は、秋刀魚の梅酢煮にしました。今年の秋刀魚は、出始めからずっと丸々と肥えて育ちの良い秋刀魚ばかりで、それに価格も安価で安定的です。新鮮なので筒切りにして煮ても、煮崩れすることがないので扱いが楽です。
Sanma1  頭と尻尾を落として6個くらいの筒切りにすると丁度3㎝強の一口大になります。新鮮な状態だと、内蔵もしっかりと残って直ぐに抜けないので、濃い目の塩水にしばらく浸けて(約10分ほど)、内蔵を締めてから竹串などで押さえて引き抜きます。この後水で洗ってから熱湯をくぐらせて冷水にとるという下処理をします。
 この熱湯をくぐらせるというのは、冷めて時間が経っても臭みを残さないためで、臭みの元となる秋刀魚の表面のぬめりや内蔵の残りが綺麗に洗い流されます。秋刀魚の塩焼きでは内蔵を食べるほどですから、それを洗い流すというのはなんとなく矛盾した感じがしますが、時間の経過による臭みの発生のことを考慮する下ごしらえです。
Sanma2  もう一手間、ここで中骨を抜く下処理もありますが(参照☛)、佃煮のように柔らかく煮るのであれば小骨も気になりませんが、そこまで煮ない場合は、中骨と一緒に残しておいた方が食べる時に骨が除きやすいです。
 味付けは、今年漬けた杏の漬け汁(参照☛)と水です。杏を漬けるときは、砂糖、酢、塩だけで杏から水分が上がって残った液なので、水は入っていない正真正銘の杏の水分と酢です。水で薄めると、酸味の利いたジュースのようです。
 この液がきゅうりや瓜の漬物の液にもなるし、煮物の味付けや昆布の酢の物にと何にでも使える自家製の万能調味料なのです。この杏の酢漬け液と水だけで煮た秋刀魚は、梅煮と同様、さっぱりとしてほんのりフルーツの香りが漂う煮物になります。また、最後にアクセントとして、今年初めて漬けた紫蘇の実(レシピ☛)を散らしたら旨い旨いと高校生の息子が気に入ったようです。彼が美味しいと言って食べるものは、100人に出しても100人から美味しいと言われるものです。ですから自信を持ってお薦めします。

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 ところで、普通の家庭に杏の酢漬け液などあるはずがありませんね、ここに代替調味料として、二十日大根の漬け液(レシピ☛)をお薦めします。この液と分量の水を合わせて煮るとほぼ同じような味付けになるかと思います。酸味をまろやかにするには、醸造酢を使えばつんとした酸味が和らぐ上、コクのある煮物ができると思います。

材料

  • 秋刀魚・・4本
  • 梅酢・・カップ1
  • 水・・カップ1/2
  • 醤油・・小さじ2
  • 紫蘇の実・・大さじ1
  • 5%の食塩水・・1リットル

作り方

  1. 秋刀魚の頭と尻尾を切り落とし、抜ける内蔵は抜いてから5%の食塩水に10分程漬けた後抜き取り水で洗い流す。
  2. 鍋に1リットルの水を沸かし、沸騰したら1の秋刀魚を入れて30秒ほど湯通ししてから冷水に取り、冷ましてから笊に上げる。
  3. 鍋に梅酢と水を混ぜて沸騰させ、2の秋刀魚を平らに並べて落し蓋をして中火で10分煮る。
  4. 最後に醤油を少々垂らして香りをつけて皿に盛り付け、紫蘇の実を散らしてでき上がり♪

***
 何かと気忙しくなってきました。個人的なことで片付けなくてはいけないことがある中、合間を縫って購入した本も読みたい。もう少し丁寧に料理を作りたい。書くなら書くでもう少しこんな風に書きたい。やりたいことが山済みだからか、全部どれも一番したいこと。なのに、全て後回しになって何一つ満足がいかないというように鬱憤します。そして、焦るような気持に急き立てられてしまうのです。
 少しゆったりした気持を取り戻したいと思っていますが、この焦るという気持は、さーっとやってきてさーっといつの間にか無くなるのです。忘れない今のうちにこの辺を書いておこうと思います。
 どうもこれは、自分の能力以上のことを望んだ結果、その願望に届く可能性のないこととして重くのしかかっているような、そんな状態かなということ。その重さの原因は、今までの経験値という物差しで測ってみると、能力を伸ばす自信がなくなるのです。能力を伸ばすというのは、まだ余力があるという前提で使う言葉ですが、実際この歳になって、余力がないことをどこかで何かで味わっていて、その錯覚を思い知る痛さが現実だと分かってしまっているということかな。
 自分に可能性を見出せない行き詰まりというのか。だからといって落胆する段階ではなく、その気持を持て余すあまり焦ってしまうのかな。この辺がしらけないで諦めないで、自分を叱責しながらでも駒を前に進めたいところです。なんとなく先が見えてしまっているような部分と紙一重の関係のような気がします。
 読書の世界というのは、いろいろな世界観が開ける場所で大好きな場所ですが、どうも現実の自分をその世界の向こう側において見るようなクセがあって、これが逆に見えるとよいのですが、難しい。
 これは錯覚の話ではないけれど、娘から、デモンストレーション用にビデオの編集をしているのが行き詰まった、というので助けを求められました。昔、動画の編集をかなりやりこんだことがあるので当時のことを思い出しながらいろいろと模索した一日でした。
 これに関わって感じたのは、視聴するための機器に合わせてファイル変換が必要になるのですが、その方法やファイルの変換方法、またそのためのソフトは分かるのです。それは娘世代と違って、マニュアルで昔は操作したので時間もかかりましたが作業手順を描くという意味では、娘世代の比ではないくらいできます。娘と共通してできることは、交換ファイルをいろいろ試してもどれも当てはまらない時に、結局メーカーの薦める単純な方法でやるしかないということです。この際、理屈や経験など必要ないということを思い知りました。
 機器類が進化しても変わらないものというのはあると思いますが、所詮動かし方と材料さえあれば誰にでもできるという簡単で単純なものばかりです。要は、手持ちのものだけでやろうとした時に、できないとはっきりする原因は、機器類の適合性で、ヴァージョンが古いものと新しいものでは動かないという単純な理由です。私は、実はそれが嫌いで、自分で苦労して作ったり組み立てたり、また、使い勝手を自分のテイストにするのに興味をそそられるので、その機器自体に興味がある訳ではないのです。言っている意味は、機能性に魅力を感じているわけではないのです。だから、最近の進化にも興味がないので、逆にこれが講じて今の時代を知らずに、楽しみ方も知らずに終わるのかなと思ったりします。推進派ではない私です。
 今私が80歳だったら、例えばipodやiphoneが操作できないくてもどうということはありません。繋がり関係から見ても、携帯電話すら持たなくても呆れられるなどということはありませんから、自分の今までのライフスタイルのままで違和感はないと思います。でも、私の年齢くらいが一番中途半端です。少なくとも子ども達の今育つこの時代の感覚が自分になくても、その違いを我が子を通して目の当たりしますので無視できません。知る必要が出てくるのです。この関わりで感じることが、私にカルチャー的なショックを齎す一番の元かもしれません。
 昭和から平成にかけて日本が高度成長を遂げ、自分達が登り詰めて見たものは、作り過ぎから生み出した無駄。知性のない頭脳。様々な合理化で人の労働が一番軽視される社会現象。変な人ばかりの世の中。与えられた死期を迎えても簡単には死なせてもらえない高度な医療。
 考えてみると健康のためやそれを維持するために良品を選んで食べ、体に悪いからとタバコをやめ、健康に良いからと運動を続け。そんなに健康的に歳をとって長生きしても、楽しい老後ってこの国では描けないのですけど。

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