オータムポエムと板春雨のタイ風炒め:団塊世代の自殺行為は他人事でもない
今日は、「オータムポエム」という名のついた葉物のタイ風炒め物です。別名「アスパラ菜」として春先にもっと細い葉を食べていたので、春の野菜でオータム(=秋)という名のついた面白い野菜だと思っていました。ところが、あまり季節に関係なく温度で育つようです。涼しい所を好むようですから、春と秋に収獲できるように中間的なシーズンに種蒔きをするのでしょうね。
それにしても春物とは違って、夏の勢いで育ったという感じの逞しさを感じる茎です。非常に頑丈で弾力のある茎ですが、ブロッコリーのように熱でほっくりとした食感にへんかするのです。栄養価も高い野菜です。
いつものさざなみ生鮮市場で買い求めましたが、こちらの生産者のお婆様方は松本の信州大学農学部の講習会仕込みですから、何でもよく勉強されていて物知りです。寒さに強く、栽培しやすい栄養価の高い野菜を取り入れているそうです。立ち止まって興味深く野菜を見ていると、傍に来ていろいろと教えてくれます。茹でてマヨネーズ和えが美味しいと教えてくれましたが、最近思うに、こちらで教えもらう料理方法がやけに「マヨネーズ和え」が多いのです。これというのはきっと、世代の感覚だと思います。80歳前後の年齢だとお見受けしますが、戦争を境にアメリカから日本に入ってきた食文化の最先端がマヨネーズや即席カレールーなどでした。その味に魅了された時代のお母さん達ですものね。珍しい野菜のところには野菜紹介が丁寧に書いたあり、野菜への愛情を感じます。
タイ風の焼きそばは、パッタイと言われています。米粉で作った太いビーフンと野菜を塩味で炒めてナンプラーで味付けしますが、今日はこれに似せて、中国産の昆布粉入り板春雨と、湯通しした鶏のもも肉を一緒に炒めました。オータムポエムの先端の細い部分だけを切り取り、太い部分は軽く下茹でして他の料理に使います(☛Hint&Skill)。
オータムポエムはブロッコリーに大変似ているので、普段ブロッコリーで作るおかずで炒め物や、餡かけなどにもよいと思います。秋から冬にかけての嬉しい緑の野菜ですね。
- 板春雨・・100g(なければセンレクやビーフン)
- オータムポエム(葉)100g
- 鶏もも肉・・300g
- にんにくスライス・・1片
- ナンプラー・・大さじ2
- 塩・胡椒・・少々
- ピーナツオイル・・大さじ1
作り方
- 板春雨は食べやすい長さに折り、ボールですっかり被るくらいの熱湯を注いで蓋をし、6分戻して水で洗う。
- 鶏もも肉は細長く切り、それぞれを斜めにそぎ切りの一口大に切りそろえて平笊に並べ、1リットルの熱湯を回しかけて水気を切っておく。
- オータムポエムの先端の細い部分だけ切り取り5~6cmのぶつ切りにする。
- にんにくは薄い輪切りにする。
- フライパンにピーナツオイルを引き、にんにくと2の鶏肉の皮目を下に並べてゆっくり焼き色を付けながら火を通す。
- 1の板春雨と3のオータムポエムを加えて火を強め、油が全体に回って野菜がしんなりしたら塩と胡椒を振りかけて炒める。
- 最後にナンプラーを回しかけて香りを飛ばしてでき上がり♪
【お弁当に】
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加藤和彦さんの死去からいろいろ思うことがあります。
彼は律儀に真面目に仕事に取り組み、一見派手な業界で、実は自分に向き合いながら悩みぬいた挙句の選択が死だったようです。団塊世代の丁度、ど真ん中です。私はと言うと、それよりも10年も若いポスト団塊で、分類上は「しらけ世代」と呼ぶそうです。今回の自殺が妙に気になるのも、周囲を見渡すと、その世代とその子ども達に自殺が多いと感じるからです。私も全く関係ないとは思えず、薄っすらとした昔の記憶に、切り離せないいろいろなことが、まるで自分が体験したのではないかと錯覚するほど、ある部分を鮮明に覚えていたりします。
真面目で、律儀で、申し分の無いほど周囲に配慮し、消してそれは無理をしているのではなく、染み付いた習慣的な自分のことには違いないのです。が、それがもしかしたら自分の欺瞞ではないかと疑うように、何かに気づいたとしたら、それは、できるだけ早く、できれば歳は若いうちがよいと思ったりします。人格の崩壊という空恐ろしい事だって起こりうるのです。
これまでにも私は、自身のことで気づいてしまったがために、そのことを自覚しながらそれに付き合って生きています。悩みが無いのではなく、それをどうすることもできない自分の問題として抱えて生きているわけです。
先日も、私より少し年上の友人と話をしていて、大きな壁にぶち当たった時は、越えられない自分は、それはもう既に全ての方法をやり尽くし、他人に救えるようなことではないことと、超える力も無い自分が生きていていても無駄なのだと思いがちになる。と。そういう思考に入ると、どこかに引きこもりたくなるものです。この時、少し自分を誤魔化すか、誤魔化せない自分は居場所がなくなり、死ぬしかないと思うかです。これは、紙一重の位置にあります。何故か、この辺で一致したのですが。
ちょっと思い出したのですが、しばらく前に見た映画で「小説家を見つけたら」という007で有名なショーン・コネリー主演の映画ですが、このストーリーというのが、ピューリッツアー賞に輝いた処女作一冊を書いて姿を晦ました小説家が、あることをきっかけに外の世界に出てくるという、生をテーマにした作品ですが、紙一重と言えば、人の人生がいとも簡単に変わってしまうのもほんのちょっとしたことであったり、それが受ける年齢によっても、こうも違うものかと、考えさせられました。
加藤さんに起こったことは他人事とは思えない、なにかもっと深いところで思いというのはあるのですが、うまく表現できません。
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