2009-09-12

こんにゃくの土佐煮:こんにゃくの下ごしらえについて:「破綻した神キリスト」を読んだ私、少しまともになったかも

 自動的に時刻合わせをする目覚まし時計が鳴らなかったという異変でスタートした朝でした。いつもに無くいろいろと用事の入っていた金曜の朝だけに、慌てふためき、そのことだけは何とかやり過ごすことができました。あれですね、時刻合わせを自動的にするといっても、電池が風前の灯だと動きませんね。すっかり安心しきってもう3年くらい電池のチェックもしていませんでしたが、メカの基本が飛んでいました。しっかし焦りまくりの朝でした。とはいえ、いつもにいなくなんだか静かな金曜日で、日中は秋晴れとはこのことだわと言えるような晴天で、穏やかでした。

Konnyaku

 和の副菜としてこんにゃくの土佐煮はいかがでしょう。こういうお料理にはほっとするものがあります。鰹の出汁がしっかり利いた醤油の煮物にはやっぱりこれだあ、と裏切られない味にほっとするものを覚えます。
 土佐煮と名づけているお料理は、味付けに削り節を一緒に煮込むからで、高知県の鰹が有名だからその名をとって土佐煮と呼ぶのだと聞いています。ただ、鰹の出汁を取る時も同様ですが、長く加熱すると酸味や苦味が出て風味を損なうので、ほんの一瞬だけ温度を馴染ませる程度の加熱にして、あとは余熱で味付けをするように心がけるとよいです。
 こんにゃくの味付けで、気をつけることだけ書いておきます。
 水分が90%以上を占めるこんにゃくに味付けすると言うのは不思議なことです。でもこの水分が余分に残っているればいるほど味が付かなかったり入らなかったりするのは道理ですから、下ごしらえというのは、できるだけ水分を抜くことを意味します。また、グルコマンナンという成分が、えぐみやぬめりの元になっているのでこれらも除いてしまいます。方法は今まで書いてきた料理にその都度特記してきましたが、こんにゃくの単品料理に因んでここで改めて言及しておきます。
 、まず、たっぷりのお湯で下茹でする方法です。臭みやえぐみも同時に取れて一番多く使う方法で、料理に相応しく切ってから茹でても切らずに丸ごと茹でてもどちらでもオーケーです。下茹でしたあとの熱を再利用して煮物の途中で加えると、味が馴染みやすくなります。
 、次に空炒りです。料理する前にあらかじめ切ったり千切ったりしたこんにゃくを空炒りしますので短時間で適度に水分が抜ける方法です。
 、塩を振って叩く方法です。塩を振るというのは内部の水を抜くためですが、その上叩いて水分を出すのです。この方法はこんにゃくは切らずに丸ごと叩きます。水を出した後、切ったり千切ったりしますので短冊に切るような和え物やトン汁の具に小さく切って使用する料理に向いた方法です。
 今回の土佐煮では、①と②の両方の下ごしらえをしたので、万全な状態です。空炒り後の味付けは驚くほど早く、しかもしっかりと味が入ります。ちょっとした一手間ですが、こんにゃくに味が染みているとほっとするというのはこういうことだと思います。
 こんにゃくの大きさに規格というものは無いようで、作る過程や会社によって大きさはまちまちです。また、色も違います。本来のこんにゃくは、黒い混ざり物は無いのが本当で、混ざっているのはひじきの粉などだと聞いています。どちらでも良いのですが、たっぷり水を含んで新鮮なこんにゃくは弾力があって、ぷりぷりしています。 

材料

  • こんにゃく・・250g
  • 酒・・大さじ2
  • 醤油・・大さじ2
  • 味醂・・大さじ2
  • 削り節・・一掴み
  • 鷹の爪・・1個

作り方

  1. 鍋にたっぷりのお湯を沸かし(1リットルくらい)、一口大に千切ったこんにゃくを加え、再沸騰したら笊に取る。
  2. フライパンに1のこんにゃくを移し、種を取り出した鷹の爪と一緒に中火で5~6分から炒りして蒸気を飛ばす。
  3. 酒と醤油を加えて煮絡め、水気が少なくなってきたら味醂を加えて照りを出し、鰹節をまぶして火から下ろす♪

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 昨日ポストに一枚の印刷物が投げ込まれていました。独特なイラストレーションと色つきのコピー紙に黒のインク一色の刷り物です。見た瞬間にこの印刷物はどこの発行か直ぐに分かる、それなりの一貫性がうかがい知れます。ある町の教会の印刷物でした。目が止まった理由は、タイトルです。「何のために生きてるの?」とあって、その下の挿絵は、大人の手と子どもの手が今まさに届かんという寸前のシーンです。
 このような印刷物がポストされると、世の中が世知辛くなったのだなと察知するのが関の山で、申し訳ないですけど、私はその世界や神の存在を信じないので無用ですが、先日「破綻した神キリスト」を再読する(参照☛)きっかけとなった理由に「この世の全ては神が造られた」ということを次のように教えてもらってからでした。

「神の言葉」というのは、「光あれ」と神が言葉でいうと光が存在した、ということで、存在の本質がそのような神の言葉=意味=意図による被造だということなのです。そしてそれが本質=事実=現実だということです。これに対して、私が「光あれ」といっても光はない。光をあらしめるには、自然に対して労働をしなければならない。また、そのように存在する光(の意味)を私たちは、人の言葉、つまり伝聞として聞く、という関係性に置かれるということなのです。誰かが、これが世界の真実だ、と語っても、それは、伝聞だということです。その伝聞性を支えているのは、この世界が「神の言葉」で作り出されたということなのです。この感覚が、西洋人にとってrealityということなのですが、日本人は、存在を、自然にタネから芽が出て花が咲くように見ています。(参照☛

これだけでも難しく感じるのですが、生まれた時からこのように信じて生きてこられた方の信仰心を傷つけるつもりはありません。が、「苦しみを伴うのは、人は罪を持っていて汚れているせいだと教えています。そして、善を行うものは一人もいないと断言しています。」詩編14:3
これは一例ですが、実際に苦しんでいる人が藁をもつかみたい気持ちでいる時、本当にこれが藁でも木切れでも救われるのならつかまろうとするのではないかと考えると、信仰という道も一つの道なのか、否定はできません。でも、理解するということは難しいことです。46億年前に地球が誕生して人間に一番近い猿人は400万年前くらいと言われています。でも、これはそもそも神が創造された物なのだと言われると、浅はかな好奇心な考えでそうかもしれない、と思ったりするのかもしれません。これ、と言って言及するのは難しいことだと思います。
 今は、このようなチラシが玄関に投げ込まれると、世の中が世知辛くなった証なのだなと思うのです。だた、以前と違って、全面的に拒否すると言うのではなく、信仰を持つ人が何故熱心に神の教えを説いて歩くのかということが素直に受け入れられる私になったと感じました。今回このチラシを手に取った時の私の変化でそう感じました。
 実は、ここからが私が本当に言いたいことなのですが、考えてみると、相手の立場を全て知るということは不可能ですし、一般的に、反論するに足るほど相手を知っているわけでもない場合が多く、それというのは、軽く口にできることは少ないのだということです。この歳になってこんなことを再確認するとは驚きでしたが、自分が「知っている」と思っていることにどれだけ思い込みが多く、それを「過信」しているかです。その「過信」こそが信じる世界そのものだと思うのです。私は、人に「私はリベラルだ」と言いたいのですが、そのこと自体を「過信」だと疑いもしない、自惚れな私の姿だったのだと気づかされました。
 これは、潜んでいるものが大きなことで、しかも自分では気づかないということの例ですが、自分とは考えの違うことを受け入れた時、初めてそれまでの自信に満ち足りた自分の考えが「そうかもしれない。でも、もしかしたら違うのかもしれない」というように不安的で不特定で自信の無いものに変わるのです。それがきっとニュートラルな状態で、一番バランスしている状態なのではないかなと思えたのです。物事が、安定的に見えてそれが正しいと決められた瞬間に、本当はどうなのだろう?という姿勢を持つことは、物事を多角面から見つめ、そのものの事実を見極めるのに大切な視点だと思います。この作業を「自己研鑽」と言いますが、それができる人は本当に稀でしょう。少なくとも今よりはもっと、さらにより良きものを目指すならば、「安定」は最悪の友かもしれないということです。

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