インゲン料理:夏野菜の定番メニュー:「シッダールタ」ヘッセ読みました
長雨の影響で全国的に野菜の高騰を報じていますね。我が家の夏野菜も期待外れで、今年は断念するのも早かったですが、後半でなんとか育ってくれたへちまには感謝です。沖縄のへちま料理を教えてもらった昨年の感激に出会うために、今年は本数を増やして育てたうち、5本は収穫できました。へちま束子(たわし)のイメージが誰にもあって、へちまの料理自体を味わうまでに時間がかかってしまうのですが、味噌炒めにして花鰹を散らした風味とへちまの食感を楽しむのに一年かけて待つ甲斐のある料理です(レシピ☛)。
さて、蔓のないモロッコインゲンの収穫もぼちぼちと言ったところで、晴天が続くと毎日両手にいっぱい収穫できます。一袋の種で我が家で食す量としてはちょうど良い収量だと思います。蔓のない品種は収穫期が短いのであっという間に終わると思いますが、蔓のあるインゲンは、大変背が高く伸びて収穫期も長いので、来年は蔓のある品種にしてみようかと思います。
借りてもらっている隣の畑のおば様が亡くなったことで、ご主人から畑は年内で終了すると聞いたので、来年は倍の大きさの畑を作る事になりそうです。できるかな、と心配になるのですが。夏野菜は連作すると育たないそうなので、広くなった畑の余裕でローテーションを考えてみることにします。ということは、今年の秋も来年の春も畑を続けると言うことですね。どうしようか迷うこともないのですが、今年のような天候不順が畑を始める最初の年だったら、つまり昨年のことだったら、天候のせいではなく自分が畑作りに向かない人間だと、きっと思い込んでやめていたでしょう。
我が家の定番料理でインゲンは毎日食卓に上がりますが、毎日食べても飽きのこないのが炊き合わせと素揚げに生姜醤油の組み合わせでしょうか。新メニューではないのでレシピは参照してください。
□ インゲンの素揚げ☛
もしかしたら娘は静岡の地震の復興のお手伝いで、食事作りに参加するかもしれないという情報を入れてきたので、手軽に作れてご飯が進むおかずとして、こんなのはどうでしょう。
*** 「シッダールタ」ヘルマン ヘッセが昨日届いてから、とにかくのめり込むように読んでしまった。短編ながらシッダールタの生涯をリズミカルに描きながら、人が救われることへの究極の探求部分だけを抽出した描写は、この年になった私の今まで経てきた思考なりが、ものの見事に図星の部分であったりした。
生きることへの苦悩や耐え苦しむ人の性は、苦行という場へ自ら飛び込むこととも違って、快楽や堕落の味を知る人間の通る道であることや、それはごく当然の報いなのだと真っ直ぐに腹に落ちた。その自分に苦しんだ挙句の先に「悟り」があるのではなく、時空の中にある一瞬一瞬を受け止めることができた時こそ、「川の流れ」で学んだ悟りの境地というものがはっきりしてくるということになんだか胸が波打った。
ヘッセの小説の世界から自分に戻ってみて、小説の前半を読んでいる自分とはまったく違う、心穏やかな安らぐような心地よさを覚えている。もともとこの本を読むきっかけとなった理由は「哲学的なところじゃなくて、女、子どもという文脈の含蓄から。」と薦められてだった(finalventの日記)。そして、その部分の描写に差し掛かって衝撃を受けたのは、彼の子どもを身籠ったカマーラから「あなたは人を愛せない」と言われ、カマーラ自身がそうだからそれが良くわかると言いのけたことだった。これは私自身のことではないかと咄嗟に思ったのもそうですが、この辺から先を読むに従ってシッダールタは、私の知る信頼のおけるあの彼ではないか。そんな錯覚に陥り、そのまま切り離すことができずにその像と重ねながら読み進めていた。
なんて因果な出会いだろうか。結局、私は、私が川の流れの一瞬に愛を感じられるほどの境地に至らなければ、永遠にこの苦しみからは解き放たれないのではないかという恐怖さえ感じた。
「子」という観点で、シッダールタが、目の前の少年は実の子どもだと知った時、その子は十歳を過ぎた少年だった。シッダールタの人生で最後まで自分を喪失して解けなかったのは我が子への愛だったのではないか。ここで女と男の実子への愛の違いをはっきり感じたのは、女は産み落とすということで既に子を自分から離す子育てを始めている。子どもの父である男は、自分の子どもに対面してから実感として「我が子」を見た瞬間から「おやじ」を意識し、触れて育てることで子どもに対する愛情を確信して、確固たるものにするのではないか。だから、自分の分身を我が子として愛しむ対象にするには、それなりの年月をかけてゆっくり育むことが「愛」なのでしょう。その点、シッダールタは長く子どもと接してなかったことが、彼の別の意味での苦悩でもあったのではないかと思った。ヘッセは、実際に自分の子どもをもうけているが、そのことについては突き詰めた考えをこの作品で表しているとは思えなかった。
感想を一気に表現できるような単純な内容ではないことから、拙い私の表現と、それ以上に拙い読解力から心にあることを全て書き尽くすことは難しいと感じる。岡田朝雄の翻訳本が一日遅れで昨日届いたので、これをじっくり読んでみたい。どうだろう、翻訳者が違うと当然受ける印象もまったくちがってくるので、それも楽しみだ。いずれまた、感想を書くことになるかもしれない。そういえば、この本を紹介されていたエントリーでは「50歳までに読んでおいてよかった本?」というタイトルだったのを思い出し、そう、確かに若くしてこの本を読んでどうだろうかと、一瞬薦めるのを躊躇う感じも覚える。「目標をもつ」事がシッダールタの言う「見いだす」生き方にはならないのなら、この本を何のために読むのか、その理由などは不問だと思う。短編ながら非常に読ませる内容の作品に出会えた事に感謝します。
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コメント
私は今まで翻訳者を気にせず本を読んできましたが、
翻訳の仕事に携わるようになって、翻訳者も気にするようになりました。
翻訳者によって原文がまったく違ってしまうことありますね。
投稿: fatt | 2009-08-20 14:46
fattさん、こんにちは。
大昔に翻訳の仕事をしたことがありますが、技術的な翻訳や商業英語の翻訳ならともかく、小説や詩など、著者の叙情をどう訳すかというのはとても大変なことだと思います。原文は、それが英語でもたとえ母国語の日本語でも著者にしかわからないことなので全て読み手の問題かと思います。
優れた翻訳者は、優れた読み手でもありますね。
投稿: ゴッドマー | 2009-08-20 16:06