春菊と海老の卵とじ:息抜き程度の料理:勝負という世界からの脱皮、そして生きがいとは
あの、日本の女子陸上界初の金メダリストの高橋尚子さんが引退を表明したと、昨日の朝のニュースで聞いた時のことです。朝食の仕度をしながらその音声をラジオから聞いていて涙が出た。不覚にも泣けた。私は一体何に反応してしまったのだろうかと、冷静さを取り戻すのに1分もかかりませんでした。潔い決断と、爽快な印象を受けるインタヴューから察するところ、彼女の陸上との関わり方がはっきりしている引退なのだと、そうなのだと思いました。
今年の春を過ぎた、もう少しで初夏を迎えるという頃、ひょんなきっかけで私はジョギングを始めました(☛参照)。時々ここにもその様子を書いてきましたね。健康のためというのが主たる目的ですが、早歩きでは物足りなく、かといってマラソンに移行して、行く末は何かの大会に出場したいという目的など毛頭無しです。単に楽しく、体の年齢に無理のない形で走ることができたらどんなにいいかと、LSD(Long Slow Distance)という走法で開始したのです(☛参照)。今でも勿論、特別な事情がない限り毎朝楽しく走っています。スポーツが楽しいと心底思えたのは、これが始めてじゃないかと思いました。
ちょっと昔の話から入ります。陸上や水泳で鍛えた体を資本に、バスケットの世界に入り、始めた年齢としては少し遅かったとは言え、かなり上のほうへ登りつめた私です。あ、精神的にという意味でです。勝つためのバスケットだったのですが、それを止める時に、潔くできなかったのですね。後悔とは違って、次のステップが見つからなかったのです。それまでの経験を生かそうとか思うよりも、自分とバスケットの関係性を違う方向や、関わりと結びつけるきっかけも、考えもなかったのです。はっきりしていたのは、勝つためのスポーツは虚しいという事と、年齢的にバスケットという競技はキツイスポーツだということでした。勝つ事が目的というのは、スポーツに限らず虚しい事です。敗者を生むだけですし、その敗者に対して醜い優越の目を注ぐような安っぽいものでしかないような、あの感じ。私はそうはなりたくないと、どこかで冷めた気持ちでずっと見ていた。そのような感情に耐えられなくて、足を洗って正解でした。でも、次へのステップが踏めずに、それから長いこと自分の生きがいをずっと探しながら生きて来た気がします。いろいろな事に手を出し、そこそこの所までやり込んで、人からそれなりの評価を受け、自分でもある程度満足なのに、満足した途端「これじゃない」と捜し求めている事が違う事に気づくという、この連続でした。「生きがい」というものが、既に「勝利」という醜い表面的なことに侵害されてしまって、払拭できない自分に気づくのも随分後になってからでした。長いこと、もがき苦しんでいました。その後、「生きがい」と言えるものが何なのか、今でも一言に尽きるこのことが見つかった時は、嬉しくて、これまでの自分が間違っていなかったと、かえって自信がついて明るくなれたのでした。もう40歳でした。幼少の時から擂り込まれたスポーツの概念を払拭して、自分の生きがいを見つけるのに、同じくらいの年月がかかった事になります。
高橋選手は、引退と同時にあのように前向きに次へのステップを踏めるというのは、言葉として言い切れるだけの背景がきっとあるからでしょう。そのように感じ取った瞬間、どっと涙がこみ上げました。苦労話からというより、自分が嬉しかった事を思い出して、感動して泣けたという、ただの酔っ払いのようなものですね。
「勝利」という言葉で全ての結果を結びつけてしまうような自分だったのですが、毎朝のジョギングが、毎朝楽しみで仕方ない今の私は、完全にあの醜さを払拭しています。「頑張る」ということを取り除いたスポーツの存在に気づけて、本当に嬉しいです。昨日書いた、「書く」ということも同じで、自分との戦いや苦行でも何でもないのです。頑張らないスポーツについてちょっと前に書いています。☛こっち
山本七平さんの「父と息子の往復書簡―東京‐ニューヨーク」で、一体どのような事を息子さんに話しているのか、届くのが待ち遠しいです。
人間はカネにならんことを一生懸命やっている限り堕落しないと私は信じているのだ。
しかし、このカネにならない仕事を長期間継続することは、相当の決心と持続力がいる。問題は「餓え」より安易につきたがる心情だろう。
私は常に楽観的なのだ。いずれ人びとはそれに気づき、自らを少しでも貧しくするため、「金にならないことは何でも」一心に行い、それで心の空白を見なすようになるだろうと思う。それは根拠なきことではない。江戸時代にはそういう人はいくらでもいたのだ。
このような精神性を難なく言える大人は、もう少ないと思いますが、私達世代も見習う事がきっと沢山あるのではないかと考えます。
さて、畑の春菊が15cmほどに成長して、間引くように根元からちょんちょん切っては、毎日食べています。生のままサラダで頂くのも美味しいのですが、ちょっと目先を変えて、海老と炒めて卵とじにしました。特別な下ごしらえということもありません。昨日のあんさんのコメントにもありましたが、仕事から帰宅して、短時間で夕食を準備する方にとって、息抜きもしなければね。でも、それ相応に夕食らしさも踏まえたレシピですね。これ、生み出すのに時間は掛かるものです。
で、殻つきの冷凍海老を解凍して、殻を取り除き、背中に包丁を入れて背腸を出します。浅く背中に包丁を入れると、味がしみ込みやすく、早く火が通りますので、海老の食感が残ってプリプリになります。塩と酒、片栗粉で下味をつけて八割方炒めてから春菊を加え、しんなりしたら溶き卵を流し入れてそっとそのまま焼いて、裏返して仕上げます。春菊の替わりに、ほうれん草、小松菜、みぶ菜、冬菜、長葱などの、今なら何処にでもあるような青物でいいと思います。
海老を戻すのに時間は余りかかりませんが、仕事に出かける前に冷凍庫から出して、冷蔵庫に移しておくと、ゆっくり解凍できます。むしろ冷凍の魚や肉はこの方がより自然に戻ります。献立が決まっていると、憂鬱な買い物にはなりませんし、必要なものだけを買い求めて、足早に帰宅できると気分も軽くなりますね。
材料
- 春菊・・200g
- 冷凍殻つき海老(中)・・10尾
- 卵・・2個
- 塩・胡椒・・適宜
下味調味料
- 塩・・小さじ1/3
- 酒・・大さじ1
- 片栗粉・・小さじ
作り方
- 海老から殻を外し、背中に浅く包丁を入れて背腸を出して、軽く塩(分量外)で揉んで洗い流します。
- 小ボールで、下味調味料で海老を軽く揉んで10分ほど置く。
- その間に春菊を洗って水を切ったら、5cm幅にざく切りし、卵は軽く塩・胡椒を加えて、解きほぐしておく。
- フライパンにオリーブオイルを引き、海老を並べ時々フライパンを回すようにして半分くらい色が変わってきたら裏返す。
- そのまま触らないようにフライパンを回だけにして、海老の中心が少し透き通ってる感じになったら春菊を乗せる。
- しばらくそのままにして、春菊がしんなり沈んできたら、始めてここで炒め合わせる。
- 全体がしんなりしたら、卵を流し入れ、卵の周囲が固まってきたらそっくり裏返して火を通す。
- 皿にすべらせるように移して、人数分に切り分けて召し上がれ♪
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コメント
おはようございます。
春菊とえびの卵とじ、すごく美味しくできました。
卵料理は、主人はパンチがない、といってあまり好まないのですが、辛い中華ダレを添えて出したら、美味しいと食べてくれました。
結婚した当初は、食事を作るたびに、自分で自分の作ったものに、「おいし~!!」と感動していたものでしたが、
最近は、主人が美味しく感じるかが重要で。
自分好みに作るというコトも、自分で自分の作ったものに感激、というコトがなくなっていたので、新鮮な気持ちで食しました。
何より、自分に向けて(思い込み)のレシピだという事が、とても嬉しくて。
一人、ニンマリして食べてました。
今日は、週末。
仕事は激変しませんが。
自分がすねていただけだと、気づけただけ。
明るい気持ちで、3連休に向かって今日過ごせそうです。
あんさんも良い、一日をお過ごしくださいね。
投稿: あん | 2008-10-31 09:17
あんさん、こんにちは。
うふふ、良かったですね。
難しい料理ではないけど、他人のレシピで作る時って、いい意味の緊張が走りますよね。
一つが上手くいくと(納得いくと)、他の事も連鎖反応しますね。良い週末になるといいですね。言われて気づいたけど、3連休でしたか!私は過ごし方なんて何も考えていませんでした。
では。またね。
投稿: ゴッドマー | 2008-10-31 13:03