2008-08-07

もずくと丘ひじきの三倍酢:成長のプレゼントに

 息子が帰省で帰宅するのは年に2回。全部あわせても2週間も無い、少ない日数にもかかわらず、小学生の頃から日課であった食後の食器洗いの習慣は、息子の帰宅と同時に舞い戻ってきます。食事が終わるとスムーズにその流れになって、息子同士で順番を決めたりしてる。その光景は、ですから小学生のその頃と全く同じで、私にとっては懐かしいのですが、あの子らにとってはその習慣が昔のまま活きているのです。
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 長男が中1の時、美術の時間に作ったという焼き物の皿を照れ臭そうに、「僕が作った皿だけど、何かに使える」と手渡された。こういう時、母親として直感的に感じるのは、「どうでもいい誰かが作ったものじゃなくて、お母さんが使ってくれるように作った僕のお皿だよ」というメッセージでした。いえ、お皿にしては、出来栄えからはとてもお皿ではないし、率直に言うと中1の子の作品にしては貧弱なデザインなのです。ですが、母親の役に立ちたい、そういう自分を認めてね。というメッセージを感じたのでこれは外せません。他の誰かに代役ができることでもなく、明らかに母親の私しかできないことなのです。すぐに何かに使って、しかも、息子にそれが見えるような場所に置いて、「重宝してありがたいよ」というメッセージをこちらかも送るわけです。そのことに満足できるともうその後は、お皿のことなどどうでも良くなると言えばそうです。が、母はいつまでもその余韻が楽しみたくて、ずっと大切な宝物のようにします。子どもが3人もいると、そういう品々が家のいたるところに足跡を残しています。
 で、今、このお皿はどうしているかというと、食器を洗う廃油石鹸置きになっています。私としては、前述したように息子の造ってくれた気持ちをいまだに尊重して、大切に使っているものです。ついでに言うと、表面が平らでないため、その凹凸が微妙に石鹸の乾燥に役立ってくれてべたつきません。これがほんとうに重宝していると言える優れものの部分なのです。帰省と共に始まった食器洗いの時に、長男にこのお皿のことを話すと、全く信じません。まず、自分で作った記憶がないこと。裏に彫った名前は、自分の筆跡であることも認めないのです。しかもそれを母親にプレゼントしたこともです。「信じられないけど、名前を見るとどうやら俺が作ったものらしいね。」と言います。そう、このお皿に関しては、引きずるものは跡形も無いという証明ですね。私に渡した時点で、すっかり受領されたのだと思います。
Dhe
 このお話は、たまたまお皿ですが、このようにして子どもが親の愛情を確かめるような場面が日常それとなく、わざとらしくなく起こります。多分本能的な何かです。この授受関係が速やかに済まないでしこりを残し、それが後々何かと絡んで生涯子どもの心に残る「愛情不足」の片鱗になると、子どもにとっては悲惨な人生になると思います。別のことで女の子に起きることが私の立場で分かるので、はっきりそう言えます。このことにどう決着をつけるか。それにしても、親子関係から自分の引っ掛かりを見つけ、しかもその元が見つかっても、取り戻せない遥か昔の出来事の中のことだとわかった時の方が悲惨で、残酷なことです。ここで、追記しますが、男親の立場から「男の自立」について、エントリーがありましたので、リンク先をどうぞ☛

これね、ある意味古典的難問っていうか、よくあること

 食器洗いを一緒にやっていてふとした、たかがお皿のことからでしたが、私にとっては子育てを振り返るいいきっかけでした。これが毎日でなく、年に2回だからまたいいのですよね。(知り合いの呟き発見!☛参照) 息子や夫が好まない酢の物の「もずく」を成長のプレゼントにしたいと考え、どーんと出してしまいました。心の中では、「ここまで成長したんだから、これくらいクリヤーできるでしょ」のような気持ちです。色合いもよく、もずくと一緒に喉越しも良くなるのではと、丘ひじきを茹でて混ぜてみました。中央の黄色は、旬の頃茹でて冷凍保存した黄菊です。半信半疑でしたし、ちょっと意地悪かなとも思いましたが、3人とも何も言わずに綺麗に食べてくれました。いや、見込み違いもいいところ。ざーんねんな結果に終わりましたが、もずくが食べられるとは思っていなかったので嬉しい結果でもありました。

材料

  • もずく・・200g
  • 丘ひじき・・60g
  • 黄菊・・適宜(☛参照
  • 三倍酢・・砂糖大さじ2+酢大さじ2+醤油大さじ1+水または出汁大さじ2

作り方

  1. 沸騰したお湯に丘ひじきを入れて再沸騰したら笊に引き上げ、3cm幅にぶつ切りにする。
  2. 三倍酢を作る。
  3. もずくと丘ひじきを三倍酢で味付けし、解凍した黄菊をのせて出来上がり♪

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コメント

私はモズクが大好きだからこんなにど~~んと出てきたら大喜びしちゃいそうです。
親子間の愛情の授受って大切ですね。愛されてないとは思わないし、愛されてるんだとはわかってるんですよ、頭では。
だけどその最初の子供からの愛情の確認作業の投げかけが私は上手く出来なかったのでしょうね。自分の気持ち等には我慢するようになっていた子供だったので。
だから愛情の確認の必要な授受が出来なかったんです。そりゃ母も無理ですよね、投げかけられてないんだから。
でもだからかな。愛情に飢えた子になったのは。まぁ、自業自得なんでしょうが・・・。

投稿: tomo | 2008-08-07 11:36

tomoちゃん、ちょっと踏み込んじゃうけど、「自業自得」と片付けるのも自分を追い込むというカ、苦しくなりますね。それは自業自得ではないと思います。お母上も、tomoちゃんのそういった存在に気づけない背景があったのだとは思います。お母様のお歳はおいくつぐらいでしょうか、多分生き抜くための激動の時期にすっかりはまっているくらいではないかと想像しますが。ともちゃんには絶対に理解できない世の中の事情があったあたりかと思います。私は昭和を社会を認識できる年齢で生きてきたので、当時の事情が少し分かるのですね。だから社会のせいだと言いたい訳でもないのですが。自業自得と片付けるのは違うと思います。そこはね。

投稿: ゴッドマー | 2008-08-07 12:12

godmotherさん、おはようございます、

写真はご長男のお皿ですよね?すばらしいできぢゃあないですか!私も実は小学生のころ陶芸教室に通わせてもらっていた時期があります。その時のつぼだのをやはり母が家の階段のニッチに飾ってくれています。見るたびに当時のことを思い出します。その経験からいえばこのお皿は素晴らしい出来ですよ。

あたたかさが実につたわるお話で胸があたたまりました。

投稿: ひでき | 2008-08-08 09:46

ひできさん、おはようございます。

実は後日談がりまして、大した事ではないのですが、小学校の6年の時の作品で『壷』のようなものを作ってくれたのですが、本人はそのことの方が記憶に鮮明だったようでどうしたか聞かれました。もちろん慌てて出してきたのですけどね。そのように食い違いもありかよー!みたいな事があって、それは本人の作品に対する思い入れなのでしょうね。ここにはアップしなかったとって置きのクラフト(?)もあるのですよ。5歳児の時の。まー親馬鹿ちゃんりんしゃんはこのくらいにしておきます。
ひできさんのお母様もきっとおなじだと思いました。飾る時の理由ははっきりあるのに、未だに階段のニッチに飾ってあるのは、片付ける理由が無いからですよ。
褒めていただいたようですね。ありがとうございます。でも、えええええ!って思っちゃいます^^;。ひできさんの陶芸心はいつまでだったのでしょう?

投稿: ゴッドマー | 2008-08-08 10:46

どっひゃぁ、とらばをいただきありがとうございます。

どれこそ中途半端な、それこそ中学二年生が描きそうなエントリーにいただき、恐縮至極です。

そうですか、片づける理由がない...ま、母親と息子というのはなかなか難しいものがありますよね。途中から関心の方向性が全然かわってしまいますものね。それでも、母は母、息子は息子というのがすごいところなんですけど。人生の不思議かもしれません。

そうそう、陶芸だけはいつかは復活したい数少ない趣味でした。思い出させていただき、本当にありがとうございます。

投稿: ひでき | 2008-08-08 18:12

ひできさん、交換日記のようなものですよ。トラックバックはね。(はてダの住人だったことがかなり自分の中から除外されつつあります。TBのシステムもすっかり忘れていました><)

該当のエントリーですが、こういうことって、自分のことだとブログでは書き難いですよね。完全にHNなどで隠れているといいですけど、とかくリアルな知り合いが見ていますでしょ?ブログを書き続けると孤独の道を辿るというのはそう思います。けど、それとなく察してくれる友がいるという芳香性もありますよ。陰ながらすごく微量ですけどね。

投稿: ゴッドマー | 2008-08-08 18:33

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